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2008-06-16 Mon 17:24
「3時までになりますが、よろしいですか?」
喫茶店ハイロウズのマスターは、言った。 ちらりと店の時計をみると、どうやら2時を少しだけ回ったくらいだった。 店内には、常連客らしい客がカウンターに一人いるだけで、お婆さんは奥から2番めのテーブルに猫と並んで座った。 流れているのはロックではなく、意外にもジャズでなかなかお婆さん好みの曲調だった。 さて、3時までに作りかけの短歌を完成させよう。 上の句だけで終わってしまって、続け方がわからなくなってしまった短歌をお婆さんは幾つも持っているのだけれど、勿論それは俳句をはじめ他のいかなる種類の詩としても成立していないものばかりだった。 こんな時うどんがあれば走り出す …… はて、どんな時だったかな? なんで走り出すんだったかな? 猫に、ヒントを求めると、猫は早くも熟睡しているのだった。 アイスレモンティーの中に、当たり前のように浮いているレモンを眺めていると、作りかけの短歌よりも今ここに氷の上に浮かんでいるレモンについて、新しい短歌が浮かぶのではないかと迷いが生じてしまう。 そして、ほとんどの場合お婆さんは後から来た酸っぱさの方を優先させるのだ。 ふとカウンターの方に目をやると、女の子が座っていた。 先ほど常連客のように見えたのは、実は、この店の子供なのだった。 熱心にノートにペンを向かわせている、きっと、それは宿題なのだろう。 「急げよ! 時間がないぞ!」 マスターの声がした。 一瞬それは、自分に向けられたような気がした。 時間がないのは、むしろお婆さんの方だった。 「大丈夫、大丈夫。間に合わせる」 言葉通りに、ペンが加速していく。 ぼんやりと 流れていればよかったが 私は固い結晶と化した キラキラと一瞬の 揺るぎなさから 粉々にわかれて ふりだしに戻る 涼しげに 緩やかに流れは 続いていたけれど キラキラの眩さに ふつふつとして 浮き上がり 舞い上がった ふわふわと のんびり流れながら 浮いていればよかったが キラキラと キラキラと 恋しい地上に 降り始めた いつも ただ 流れているようで 流されているようで 時に集合し 時に分解し 時にいい気になって 時に号泣したりしながら 振り返れば私は とても多くを 流れたようだ キラキラ 明日が 透き通って 結局、勝ったのは子供だけだった。 お婆さんの創作活動は、再び路上に帰ってきた。 原点はいつも道の上にある、とお婆さんはつぶやいた。 肩の上に無理な姿勢で乗っている猫が、同意するように首を動かしていた。 歩いていけば、出会いがあるさ……。 そうしている内に、ベビーカーを押して歩く、若い母親とすれ違った。 少し遅れてシャボン玉少年が、泡を吹かしながら楽しそうに歩く。 「待ってよー……」 お婆さんの背中で、少年の声がした。 そして春風に乗って、少年の作り出した幻想の玉が流れてきた。 ふわふわと虹色に光り輝きながら、それはどういうわけか執拗に猫の頭ばかりを攻撃してくるので、猫はたまらずお婆さんの肩から飛び下りた。 そして、生き延びた泡々を追いかけて走り出した。 その横顔は、時の虹をかける猫のように透き通っていた。 「こらー、待てー!」 お婆さんが、逃げて行くものに向かって叫んだ。 |
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2008-06-10 Tue 01:59
第一のコースにイルカが上った。
きっと優勝するだろう。 イルカの落ち着き払った表情を見て、猫は思った。 第二のコースのレトリーバー、その隣のみにくいアヒルの子を、猫は目を見開いて観察してみたものの、とても敵わないと思う。 第四のコースにライオンが登場するとさすがに百獣の王だけあって、場内は一気に緊張感を高めたものだ。 続けてエントリーしたカバとの距離が、恐ろしいほど小さくて、猫はどんなに頼まれたとしてもあの二人の間を通り抜けることは絶対に絶対に嫌だった。 第六のコースには空を見上げながら、かもめのジョナサンが上がった。 初夏の空は、雲一つなく澄み切っていて絵の具で塗ったようにどこまでも青く、鳥になったら今すぐ飛んでいきたい空だったけれど、転げてもひっくり返っても猫の背中に翼は生えてこないのだった。 猫が空を見上げている間に、ジョーズが、皇帝ペンギンが、ヒトがそれぞれエントリーを終えた。 プールサイドで猫は、深くブルーになりながら長いため息をついた。 自分だけが、泳げないなんて……。 ただ、見てるだけなんて……。 生まれ変わったら、絶対にイルカになろう。 それがダメなら、アホウドリだ。 アホウドリのように強く、優しくなるんだ。 春になったり カブトムシになったり できるなら 占い師にだってなれるはず 鳩になったり ビターチョコレートになったり できるなら 弁護士にだってなれるはず 生まれ変わって なれるなら 今だって変われる 夢中になったり 優しくなったり 好きになったり 得意になったり できるんだ なれるんだ ビルになったり 豪華客船になったり できるなら 工場長にだってなれるはず 風になったり バレーボールになったり できるなら 旅人にだってなれるはず 生まれ変わった つもりなら 今だって変われる 強くなったり 優しくなったり 輪になったり ひとつになったり できるんだ なれるんだ 翼になったりオーロラになったり 積乱雲になったりドラゴンになったり カシオペア座になったり未来になったり 想像することが できるなら ほらね キミはもう 変わり始めている 「さあ、これを着て!」 お婆さんは、手作りの水着を猫に手渡した。 そして、最後のコースには猫が意気揚々と立っていた。 ズドーンッ、と鳴ってレースが始まると、真っ先に飛び込んだのはやはり大舞台に慣れているイルカだった。 続いてほぼ同時にヒトと皇帝ペンギンとカバ、それから猫だ。 かもめのジョナサンは、飛び込むことなく飛び立った。 目指すは十六分割垂直緩横転か、その素晴らしいスピードあるいはアクロバットはやはり大きな空でこそ発揮されるべきものだったからだ。 お婆さんは、真っ白い旗を振りながら猫にエールを送っていた。 猛スピードで追い上げてきたジョーズが、カバの尻に食いつくとそこから海底をひっくり返したような大喧嘩が始まって、残念ながら彼らはレースから脱落していくことになるのだった。 そんなことには関係なく、レトリーバーはどこまでもマイペースだったし、みにくいアヒルの子の姿は、お婆さんのところからは確認できなかった。 先頭のイルカを追うのは、ヒト、続いて猫だ。 お婆さんの声援に勇気づけられながら、猫はついに疲れの見え始めたヒトを捉えた。 壊れんばかりに壁を蹴ってターンをすると、イルカを猛追した。 猫は、空を得たジョナサンのように速く、それは正にお婆さん製の水着がいよいよ真価を発揮し始めた証拠だった。 イルカは、ラストスパートに入ったところでプールから飛び上がり、二度三度と回転して大いにギャラリーを沸かせたのだけれど、皮肉なことにそれは自分自身の輝かしいゴールを遠ざけた。 自分の泳ぎに自信さえ覚え始めた猫は、とうとうイルカさえも抜き去ったのだ。 最後の手を伸ばした時、振り返れば驚くべき記録で、なんとそれは動物新記録だったのだ! 猫の次に入ったのは、意外にも皇帝ペンギンで、ペンギンは自分のタイムをみてしきりに頷いていた。 続いて、ヒトがゴールする時、イルカは壊れた時計のように空中に留まっていた。 そして、百獣の王ライオンは最後までその場を一歩も動くことはなく、その姿はやはり王様にふさわしいものだった。 表彰台の上に立った猫は、きらきらのメダルにそっと感謝のキスをした。 その横顔は、なれるべきものになれた子供のように黄金色に染まっていた。 お婆さんは、今すぐそばにいって抱きしめたかった。 けれども、しばらくは離れていることに決めた。 ヒーローになった猫を、遠くで眺めている……。 それだけで、お婆さんも幸せなお婆さんになれたのだ。 |
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2008-05-27 Tue 22:37
どうしてもどうしても伝えたいことがあった。
由佳は手紙を書いた。 一ヶ月ぶりに歩く外の世界には、人や車や風が流れていたけれど、なぜか未来の世界に訪れてしまったような気がした。 窓から吹き込んでくる風とは違って、本物の風は大きく冷たくて、気を引き締めて歩いていなければどこか遠くへ飛ばされてしまいそうだった。 赤信号で足が止まると、右手の手紙をきつく握り締めた。立ち止まることの不安から足が震える。 けれども、青信号に変わる時には、それは歩き出すことへの不安に切り替わっているのだった。 変わることのない赤色の箱を探して歩き続けるのだけれど、いくら歩いても見つからず何度も見かけるのは灰色の箱で、それには天国と地獄を分けるみたいに 燃えるもの、燃えないものなんて書いてある。 どちらでもないものは、どこに行けばいいのだろう……。 あるいは、そんなものはないというのか……。 突然風が、未来からやってきた郵便屋さんであるみたいに水色の封筒をさらっていった。 燃え尽きそうな太陽の下で空全体が、まるでポストのように赤く染まっていた。 受け取ってくれる 箱が見つかるまで 私はずっと歩くだろう 風が吹いても 投げたりしない 灰色の口が 微笑みかけても 騙されない 受け取ってくれる 時が訪れるまで 私はずっと待つだろう 雲が鳴っても 離したりしない 闇が色を 包み隠しても 諦めない 私はずっと 持ち続けるだろう 赤い空の向こうに あなたを描いて お婆さんの郵便受けは、いつも空っぽだった。 だから今日も空っぽなのだけれど、お婆さんは毎日それを確かめに行くのだった。 それは朝のちょっとした運動のようなものであったし、当たり前の空っぽを確かめるのを少しも苦にしないお婆さんにとって、ほとんど習慣のようになっていたのだ。 「さーて、今日も空っぽかね……」 お婆さんが銀色の郵便受けを開けると、空っぽがどこかへ逃げ出していた。 なんと、そこには一通の手紙が入っていたのだ! < 辻 影踏 さまへ > けれども、お婆さんは辻さんでもなければ、影踏さんでもなかった。 間違い手紙だ。 お婆さんは、しばらくの間、見たこともない名前を眺めていた。 その横顔は、ひらがなを習い始めて3日ばかりの少女のようだった。 猫は、お婆さんの手からそっと手紙を受け取ってくわえた。 影踏さん、待っていろ! 白猫郵便屋さんは、朝日に向かって流星のようにスタートを切った。 |
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2008-05-21 Wed 13:01
駅前は、まるでテレビのゴールデンタイムのようだ。
通る人も多いけれど、ライバルたちも多かった。 ヒロシは手当たり次第、通りかかる人に手を差し出した。 けれども、ペースは一向に上がらず残り2箱のノルマを抱えていることを思いながら時折俯いてしまうのだった。 まだ4月の間は、人々の手はもっと優しかったような気がする。 「どうぞ!」 必死に笑顔を作っても、次の瞬間笑みを向けた対象は何も見なかったかのようにヒロシのすぐ前を素通りしていき、届くことのなかった言葉と笑顔が行き場を失ったままいつまでもふわふわと浮いているのだ。 そうした小さな失敗を繰り返す度に、辺り一帯に不健康な空気が充満していくのだった。 まるでひとり芝居のようだ。 不意に、そんな気持ちになった。 そうだ。自分は今ひとりで芝居の練習をしているのだ。 発表の場は……、発表の日時は……、 まだ、何も決まっていなかった。 けれども、どうせだからうまくなりたい。 今よりも、少しだけでも。 「一つ、もらおうかね」 白い帽子を被ったお婆さんが近づいてきた。 肩には、猫が静かに乗っている。 ヒロシは、猫とお婆さんにそれぞれ一つずつ手渡した。 自分から来てくれる人ほどありがたいことはなく、少しだけエネルギーが補充されるような気がした。 けれども、やはりいい流れはそう続くことはなかった。 ズー……、ズー……、 少し離れたところで、お婆さんが鼻をかむ音がする。 未だ何でもない 未だ誰でもない だから僕らは集まって 声を合わせて メッセージはありません 何も発しない 何も表さない けれど僕らは集まって 肩を並べて メッセージはありません 言いたいことがなくても 黙ってるわけじゃない 声を大にして メッセージはありません どうしても 言わなきゃならない ことなんかない だから僕らは 叫ぶんだ メッセージはありません 「どうぞ!」 けれども、疲れきったグレーのスーツは下を向いたまま通り過ぎていく。 本当に必要な人は、お金を払ってでも手に入れるのだ。 いくらでも、手に入れるのだ。 そして、少しも必要でない人は、ただであげるといっても見向きもしないのだ。 受け取ってもらうことは、本当に難しい。 全部を配り終えた時にはすっかり日が暮れ、三日月が青白く光って明日の天気を予言していた。 空箱を始末すると、疲れた足を引きずって歩いた。 アーケード通りを抜けて、橋を渡ったところで奇妙な光景が目に入ってきてつい足が止まってしまった。 それは、帽子のお婆さんと猫だった。 ダンボールの切れ端に短い文字が書き付けてあって、それがいくつも路上に並べてあるのだった。 お婆さんに訊くと、それは「猫短歌」というものらしかった。 「一つ10円じゃがね」 お婆さんの歯がきらりと光った。 その横顔は、月も見つめる千両役者のようだった。 「やすっ……」 思わず口に出る。 けれども、ヒロシは笑みを浮かべたまま歩き出した。 詩とか短歌などには、全くといっていいほど興味がなかったのだ。 訴えるように見つめている、 猫に小さく手を振った。 |
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2008-05-15 Thu 21:19
まだ夜は黒く、黒いから夜だった。
壁と壁の間の人が一人通れるか通れないかという細い道。 そんな道が好きだ。 猫は駆け抜ける。 目的地を目指して、ジュニーニョよりも速く。 人が知らない宝の在り処、それを見つけるのが猫の才能だ。 人気のないのを確認するため、壁の隙間から小さな首を出した。 誰もいない。 よし、行こう。 綺麗な服を着たら きっと綺麗になれるから 綺麗な服を作ってキミにみせた キミは一言 奇妙な服だと言った 私は安らぎが欲しくなった 奇妙な格好で始まった 旅はどこまで行っても安らがない 奇妙な運命の受け入れ先は 冬の星座には含まれないから 私は冬から脱皮して 優しい人を目指したんだ 優しい人と一緒なら きっと優しくなれるなら キミはきっと優しくはなかった だから私は さようなら 綺麗な服はもういらない 白い猫で出発します きっと夜の中で 見つけてください そこには、先客が待っていた。 猫とは違う形をしていた。 「おい、黒カラス。宝物は見つかったかい?」 「なんだい、白猫。ここには何もないぜ」 カラスは口先だけの嘘でごまかせると思っているようだった。 バケツをひっくり返したような宝探しの中にいて、動かないことが動かぬ証拠のように思われた。 猫は、まっしぐらに突っ込んでいった。 宝物の真ん中に向かって、あるいはカラスそのものへと……。 その横顔は、死より光を追い求めるランナーのようだった。 けれども、それより凄い勢いで闇が舞い降りてきた。 それは黒いカラスの集団だった。 黒い飢えは、みんな我先に宝を求めて尖った口先を下ろしていく。 猫は、三歩ほど下がった場所でその光景を眺めていた。 空がだんだん自分と同じ色に変わっていく中で、自分自身もまた急速に醒めていくような感覚を覚えた。 もう、朝か……。 帰って、眠ろう。 |
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