安眠
「ナナちゃん、はしっこだよー
はしっこはしってねー」
ナナちゃんの自転車は、これ以上ないほとはしっこに寄っていた。
「ナナちゃん、はしっこねー」
母の声は厳しく、温かかった。
*
遥か高い木の上から、歌は続いていた。
それは心地良いピアノの音色や、しとしとという雨音とは違ったうるさい歌だった。
「おまえ、おまえ、おまえ、おまえ、なんか、なんか、なんか、なんか
寝てばっかり、寝てばっかり、寝てばっかり、寝てばっかり」
猫の耳に、繰り返し届けられるフレーズ。少しひっかかるフレーズ。
少しひっかかり始めると、次第にどうしようもなくひっかかってくる。
木に登って文句の一つも言ってやろうかと考えながら、ふとお婆さんを見ると、お婆さんはすやすやと眠っている。
まるで子守唄か、おやすみミュージックを聴いているように眠っているのであった。
そんなお婆さんを見ていると、不思議と落ち着いた気持ちになる。そうすると、歌もまた違った聴き方があるようにも思えてくる。
猫は、眠る姿勢を変えてみることに決め、その場でひっくり返った。
まだまだ眠るのは早いよ
夜はまだまだ長いんだから
もっともっと
歌を歌おう
枕を投げよう
見上げてごらん
お花がいっぱい
まだまだ休むのは先だよ
夏はまだまだ長いんだから
もっともっと
話を話そう
石を投げよう
見上げてごらん
花が散ってく
まだまだまだまだ
まだまだまだまだ
もったいないよ 眠るなんて
そう言いながらいつも
いつも 真っ先に
眠ってしまうんだ
風の気配に、猫はぴくりと耳を動かした。
頭上高くに生い茂った木々が、風の合図で一斉に歌い始めた。
聞き覚えのある歌。それは遥か昔の秋の歌、そしてもうすぐ訪れるであろう秋の歌に似ていた。
路上では、歌声に合わせるようにして大勢の落葉の群れが踊りながら跳ねながら、猫の足下を駆けてゆく。避けるでもなく、一緒に踊るでもなく、猫は道の端をゆっくりと歩いた。
不意に目の前に現れた小さなものに、ふと足が止まる。
それは、道の片隅で仰向けになって眠る一匹のセミであった。
昼のうちあんなに口うるさかったのに、もうこんなに静かになって……。
猫は、しばらくの間、いびきもかかずに眠る虫を見下ろしたまま動かなかった。
セミもまた、微動だにしない。
その横顔は、23時にかろうじて帰り着いた父のようであった。
何かを思い出したように、猫は突然動き出した。
そして、一枚の落葉を拾い一匹の眠れる虫の前に戻ってくる。
落葉は、ふわりと落ちてセミの体の上に落ち着いた。
(ちゃんと眠れ)