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2007-10-10 Wed 12:12
巨大な硝子の箱の中には、作られた海があった。
猫は、本当の海についてあまり深く知らなかった。 作られた世界の中に、自分たちが存在していることも……。 幻の海の中を、ひらひらと泳ぐ小さな魚たちを必死で目で追った。 そして、時には頑丈な硝子に顔を近づけて爪を立てた。 きゅるきゅると滑って、何度かお婆さんに助け起こされた。 「時間がない。急ごうかね……」 二人でこっそりと忍び込んだ、水と硝子の空間にも、もうすぐお別れの時間が迫っているようだった。 猫とお婆さんは歩調を速めた。 視界に飛び込んできた、巨大な尾びれに猫は目を丸め宙を一回転した。 魚は悠々とターンして、猫の方に近づいてくる。 「ゼンベーザメだよ」 お婆さんが、耳元でつぶやいた。 お婆さんは、何だって知っている。 大きな生き物がいるものだ……。 猫は、小魚のように少し身を震わせていた。 きみがいるから 僕はここに やってきた 秘密の足跡 誰も知らない 本当の理由 やっと見つけた 名前も知らない 僕の友達 今日もきみは さよならする 誰でも さよならするんだね きみの通りすぎた 風が 冷たい きみがいるから 僕はここまで やってきた 秘密の決意 誰も知らない 僕の憧れ いつも見ていた 名前も知らない 僕の目標 今日できみは さよならする 誰もが さよならするんだね きみの通り抜けた 道が ぽっかり 一つまた一つと館内の照明が落ちていった。 魚たちが、さよならも言わずに消えていく。 消えていくのは、幻だからだろうか……。 猫は寂しい思案の波に揺れながら、ゼンベーザメを見つめていた。 このゼンベエだけは、消えそうもなかった。 何度目かのターンを終えて、猫にまた尾びれを向けた。 ゆっくりゆっくりと遠ざかって行く。 そして、ついに硝子を突き抜けて、まるで何の障壁も最初から存在していなかったように進んで行くのが見えた。 猫は、思わず声に出して叫びそうになった。 けれども、お婆さんは名残を惜しむように、ゆっくりと手を左右に動かしていた。 「本当の居場所に帰って行くんだよ……」 それがどこにあるのか、猫にはそれを問う勇気はなかった。 ただ黙って、小さくなっていくゼンベエの尾を見つめていた。 その横顔は、硝子細工の海のように青く壊れそうだった。 目の前には透明なだけの空間。 そこにもう、海の面影はなかった。 先程よりも、また少し暗さが増している。 けれども二人は、なかなかその場所から離れられなかった。 ぽっかりと空いた穴に、 硝子の時間が吸い込まれていく。 |
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2007-10-05 Fri 08:28
朝早くに、お婆さんは水をまく。
目覚めたばかりの草花に、 昨日から熱を受け継いだアスファルトに、 憎たらしい人間に……。 今日も、お婆さんはバケツいっぱいの水を汲むと、 威勢良く、水をぶちまけている。 猫は、その被害に遭わないように身をかわす。 猫は、逃げるのがとても上手だった。 蒔いても蒔いても 実らない種を 僕は蒔く 待っても待っても 訪れない朝を 僕は待つ 昨日と同じに 今日が来て 実りの時は まだまだ来ない 蒔いても蒔いても 実らない種を 僕は蒔く 待っても待っても 訪れないキミを 僕は待つ 昨日と同じに 僕はいて 実りの時は まだまだ来ない 蒔いても蒔いても 蒔いても蒔いても 待っても待っても 待っても待っても 来ない来ない来ない 来ない来ない来ない 実りの時は まだまだ来ない 憎たらしい人間が来たので、 お婆さんは、早速水をぶちまけた。 ばしゃーん、と水を被ったような音がした。 お婆さんが水をぶちまけたからだ。 猫は、次に起こることに備えて一歩後退した。 男が髪をかき上げると、ポトポトと水が滴り落ちた。 それもこれも、お婆さんが水をぶちまけたからだ。 お婆さんの仕業なのだ。 猫は、他人の表情で静観を決め込んでいた。 けれども、意外なことに男はこう言ったのだ。 「ありがとう! お婆さん、 これで目が覚めました!」 その横顔は、読書に目覚めたアサガオのように前向きだった。 奇妙な生き物を見るような目で、 猫は、人間を見た。 朝の風が、心地良い。 あちらこちらで、秋が芽を出していた。 |
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