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2007-02-23 Fri 19:16
ステージの上に、猫を招き上げた。
招き猫を抱きかかえるようにして、歌った。 猫はまだ少し眠そうだったけれど……。 お婆さんの歌を、こんなに近くで聴かされたら、 寝た子も起きるというものだし、一緒に歌うしかないのだ。 忘れよう 忘れよう 習ったことは全部 きみの 歌声の中で 忘れよう 忘れよう 笑ったことも全部 澄み切った川のように 流れる旋律の中で 忘れよう 増幅する自己会議室に 捨てられぬ柵は飽和寸前で だからもう 忘れよう 新しい雨の中で 生まれ変わる川のように 始めよう 始めよう 忘れた後で新しく きみの 歌声の向こうで 忘れよう 忘れよう もらったことは全部 再び思い出すために 忘れよう 忘れよう 忘れよう 少しかすれた きみの声を まだ少しも 忘れられぬまま お婆さんと猫は、手に手を取って客席に向けてお辞儀した。 けれども、客席には誰もいなかった。 お婆さんリサイタルが始まった時と同じように……。 猫は、お婆さんの方を不思議そうに見上げた。 その横顔は、忘却の彼方に消えた忘れ物に問いかけるようだった。 それから一つ、小さな口で大きなあくびをした。 お婆さんの歌につき合うのは、骨が折れる。 しばらくの間、お婆さんの歌が猫の耳から離れることはなかった。 季節一つ分くらいの間だった。 唄えよきみ ひとり 賑やかに ライラックの風に乗せて 自由に流れる砂のように 知らない街の向こう側 遠くで誰かが聞いている 今日の道が行き詰まったら 唄えよきみ 意味さえ求めずに 唄えよきみ ひとり 緩やかに 新月の色に似せて にこやかな花のように 名もない唄の切れ端を 遠くで誰かが聞いている 明日の道が潰えたら 唄えよきみ 意味さえ気にせずに 永遠の回り道のように 逞しく さあ 唄えよきみ |
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2007-02-20 Tue 17:55
ステージの上に再びお婆さんは戻ってきた。
熱心にエールを送る観客に応えて……。 もう一度いまステージに立っている。 もう一度マイクに両手を乗せた。 もう一度 繰り返せ 好きなように 伝えたいことがあるなら 切々と 繰り返しの 唄のように 笑いのように 語り継がれる歴史のように 通じるまで 繰り返せ 良いことは 謝りたいことがあるなら 深々と 頭を下げるように 言葉は 更に下から 誠意が通るまで 繰り返せ 明るいことは 昨日の今日のように 日々の決まりごとのように 誕生とフィナーレのように 総当りの試合のように 繰り返せ ゆるゆると 繰り返せ もう一度 優しい言葉 繰り返せ 愛していると 毎日のように お婆さんは優しく歌い上げると、ステージを見下ろした。 けれども、猫はもう眠っていた。 猫は飽きっぽく、それにも増してよく眠る猫だった。 その横顔は、繰り返される日々に疲れ果てた子供のようだった。 まだ少し、あどけなさのようなものが残っているが。 繰り返し、いびきをかいて。 まるで自分がリクエストしたことなど、すっかり忘れてしまったように……。 |
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2007-02-17 Sat 08:36
ステージの上を、猫が見守っていた。
お婆さんリサイタルの、たったひとりの観客だ。 最後の歌の時が近づいてきた。 どんなものでも、最後は少し寂しいものだ。 どんな歌だろう……。 猫の鼓動は、少しずつ高まりつつあった。 そして、お婆さんは歌い始めた。 最初のように あのまま あの場所にいたならば 私は今どこにいただろう 時間は無限じゃないと わかっているはずなのに あと少し時が早ければ あと少し時間が遅ければ 途中までのように あのまま あの場所にいたならば 私の今はどこにあるだろう 自然は限られていると わかっているはずなのに もう少し勇気があったなら もう少し器用さがあったなら あの時に あの場所で わかっているはずなのに それでも涙は止まらない 私は私は私は 想像で語れる風景は 壮大な自由と 未知の色使いで 塗り描くことができるから 現れるのはファンタジー 想像上のファンタジー あの日の笑顔と 昨日までの道程を 嘘のように飲み込んで 飛び立ったのは別世界 結末の消えた夢物語の中で 架空の登場人物の表情は 氷の中の本のように固く あのままだったら どうだっただろう きっとそれは どうだっただろう 想像だから言えること だからそう言えること 私はどこにいただろう 最後になればわかること 最後になっても、猫はわからなかった。 お婆さんの歌の意味がよくわからなかった。 眠たかったわけではない。 ここにいる誰よりも、よく聴いていた。 猫は自分の後ろに、誰もいないことを知らなかった。 お婆さんの消えたステージを、しばらく見たまま動かない。 意味はわからなかったが、少し痛く哀しくなった。 けれども、針の雨が降り注ぐような痛みではなくて……。 猫はまた、お婆さんの歌を聴きたいと思った。 その横顔は、最初で最後の理解者が描き出す優しさそのものだった。 それからお婆さんは、どこかから拍手の音がするのを聞いた。 それは、猫によるアンコールだった。 |
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2007-02-14 Wed 00:42
ステージの上にお婆さんは一人。
けれども、もうひとりきりではなかった。 猫が、真冬のヒマワリのように客席に咲いている。 たったひとり、けれど眠りもせずに……。 だからお婆さんは、勇気を取り戻し歌うことができたし、 だんだん声も出るようになってきたのだ。 ゼロの中からひとつだけ 見えてきたのはひとつだけ それは似ているようで ONとOFF 虚無と夢 白と黒 静と動 空と海 ゼロの中からひとつだけ 見えてきたのはひとつだけ その隔たりは 近くて遠くて 光と闇 沈黙と笑顔 空ときみ ゼロの中からひとつだけ きみのいちは いまとなり きみのいちは 永遠となり ゼロの中から現れた 輝いたのはきみひとり 猫の目が一番星のようにキラリと輝いた。 輝くものは他になかったのだけれど、それは兄弟星のように二つ並んでいた。 お婆さんは水を一口含み喉を潤した。 ガラガラの客席に向かって、発表する。 「これで最後の歌になります」 もうおしまいか…… 猫は少し不満げに眉間に皺を寄せた。 その横顔は、打切られた連載を前にした読者のひとりのようだった。 もう、最後の歌か……。 |
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2007-02-11 Sun 17:05
ステージの上に、うなだれたように一人。
お婆さんは立ち尽くした。 まさか誰一人いないとは驚いた! 驚きを隠せないまま、お婆さんは歌い続けた。 隠す相手も、その必要さえもなかったのだけれど……。 何度見ても同じだよ だけど何度も見るんだよ 大きな小箱に 小さく沈む キラリ 一枚 乗りかかるように もう一枚 ひとつひとつ 薄っぺらい 形をしてる 透明な箱を 視線だけが 痛みながら貫通する 何度見ても同じだよ 何も投げかけていないんだから 大きな世界に 小さく沈む ひとり 一人 寄りかかるように もう一人 ひとりひとり 好き嫌いのある 顔をしてる 何度見ても同じだよ だけど何度も見るんだよ 手を合わせても同じだよ 誰も見てはないんだよ 眠っている思い出に 雪が降り積もるように ひらひらと優しい光景は かなしい幻想の中で 散っていくだけで 何度見ても同じだよ 誰も投げ入れてないんだから 何度見ても同じだよ だけど何度も見るんだよ 願いをかけても同じだよ 誰も聞いてはないんだよ 小さな箱の中では 心の奥深くまでもが 見透かされているようで 直視はできないから 何度も視線を背けながら 何度となく 何度となく 何度見ても同じだよ だけど何度も見るんだよ だから何度も泣くんだよ 歌い終えると、お婆さんは泣いた。 目からサラサラと流れるものがスポットライトを浴びて。 それは宝石のように輝いた。 けれども、お婆さんは客席の中でそれとは別の宝石を発見した。 好奇に輝きながら……。 猫が、ちょこんと座りステージを見上げていた。 その横顔は、何度見ても新しいような懐かしいような猫の顔だった。 ひとりいた。 ひとりいたか……。 |
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2007-02-08 Thu 08:21
ステージの上にお婆さんは一人。
気持良さそうに歌っていた。 スタンドマイクに両手を乗せ、そっと目を閉じる。 「川の流れのように……」 流れるような声が ホールの隅々まで響いていた。 川の流れのように 私は変わっていく 一点には留まらず ひとつの形を持たず 緩やかに 落ちていく 川の流れのように 私は変わっていく 時に身をまかせ ひとつの方向へと 緩やかに 下りていく 同じ青さはなく 同じ音階もなく 川の流れのように 私は変わっていく いつか もっと広い場所へ 畏怖と救いに満ちた 永遠に広がる世界へ 流れ着く日まで 空に見送られながら 私は変わっていく 川の流れのように 歌い終えると、穏やかな川のように静かになった。 お婆さんと同じように客席も。 嵐のように沸き起こるはずの歓声も、拍手もない。 お婆さんは顔を上げて、不安そうにホールを見渡した。 その横顔は、川の上を旋回する鷹のようだった。 何度も何度も鷹の目が人の顔を追った。 けれども、何度見ても誰もいない。 何度見ても……。 |
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| 猫と婆とそんな横顔 |
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