はてなの窓
2008-07-22 Tue 20:51
今にも、ひと雨きそうな空模様だった。
はて、窓はちゃんと閉めてきただろうか?
そんな不安が頭の片隅を過ぎるにつれて、お婆さんの歩く速度はカブトムシ並みに落ち、ついには完全に止まってしまった。
これだけ気になるということは、それこそ忘れていることの証拠ではないだろうか……。
早速、お婆さんは引き返す道を選択した。
お婆さんの左肩の上で、猫も少し不安を覚えたのか、ひまわりのように首を傾けた。
家に戻ると、窓は嘘のように閉まっていた。
不安が嘘の不安であったことに安心し、お婆さんは再び旅立った。

今にも、ひと雨きそうな空模様だった。
灰色の雲が、東の方から大挙して押し寄せてくる。
はて、玄関の鍵はちゃんとかけてきただろうか?
もしかして、さっきは窓が閉まっていたことに安心しすぎて、うっかりかけ忘れなかっただろうか。
そんな不安が、お婆さんの心の窓をガタガタと震わせたり、トントンと叩いたりするのをじっとこらえていたけれど、とうとう耐え切れなくなってしまった。
猫がガラスの割れる音を聞きびくりとした時、お婆さんは引き返すという道を選択した。
やけに行ったり来たりする一日だ、と猫は思った。
家に戻ると、玄関は嘘のように閉まっていた。
不安が嘘の不安であったことに安心し、お婆さんは再び旅立った。

今にも、ひと雨きそうな空模様だった。
世界中のあらゆる不安がひそひそと相談しながら寄せ集まり、ありとあらゆる方向から、猫とお婆さんの頭の上を目指していた。
逃れようとして歩調を速めたとしても、それはまったく無駄だった。
空は、人よりも遥かに高く遠く大きく、永遠の時を引き連れていたから。
もくもくと増え続ける灰色の、あるいはそれよりもっと濃い色の雲を見つめていると、それはなぜか無数の?に見えてきて、そのためお婆さんはまた新しい不安を作り出さなければならないのだった。

   はてはてな、はてはてはてな、はてはてな、はてなはてなの、はてはてはてな

はて、扇風機はちゃんと止めてきただろうか?
先ほど家の玄関まで戻った時、その音は聞こえなかったけれど、そのドアの向こう側では忘れ去られた扇風機が右に左に首を振っていたのかもしれない。
誰もいなくなった部屋の中で、誰にも喜ばれずに風を起こし続ける扇風機。
もしも、それが本当なら、その責任は誰にある?

   はてはてな、はてはてはてな、はてはてな、はてなはてなの、はてはてはてな

北から吹きつける風に、猫は不安を募らせた。
今度も、お婆さんは、引き返すという道を選択する。
それは、風の答えだった。



物語は
灰色の雲と
流れてくる

どこへ向かうか
どこへ戻るか
誰も知らない

そらみてごらん
気がつけば
どんどん妖しくて

物語は
灰色の雲の
中にある

誰と出会い
誰と離れるか
誰も知らない

そらみてごらん
近づけば
だんだんかなしくて

物語の終わりは
いつも
灰色の雲だけが
知っている

そらみてごらん
手を伸ばせば

ほら きっと 届かない




玄関のドアを開け、家の中に入るとやはり扇風機が回っていた。
そればかりか、頭にタオルを巻いた見知らぬ男が忙しそうに動き回っていた。
猫は、咄嗟にお婆さんを盾にして隠れた。
お婆さんが、問いただしてみたところ、男は、引越しの手伝いだと言った。

「ごくろうさまです!」

それならば、扇風機が回っていてもやむを得ないというもの。
お婆さんは、お手伝いの邪魔をしないよう、猫を抱きかかえると家を後にした。
しばらく歩くと、ぽつりぽつりと雨が歌い始めた。

   はてはてな、はてはてはてな、はてはてな、はてなはてなの、はてはてはてな

しまった!
突然、雷に打たれたように気がついた。
引越しの予定など、これっぽっちもなかったということに!
だとすると、あのタオルの男の正体はいったい何者だ?
得体の知れない不安に包まれて、お婆さんは固まった。

その横顔は、?仕掛けの人形のように当惑に満ち満ちていた。

花模様の傘に、雨粒が当たる音を猫は聞いていた。
お婆さんは、まだ引き返そうとはしなかった。
ついに、不安という魔物にそっと寄り添って歩くことに決めたのかもしれない。
猫は、強まっていく雨に負けず、
ひとつ大きなあくびをした。






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鍵穴の猫
2008-07-14 Mon 12:08
ポケットの中にもそれはなかった。
家の前で、巾着袋をひっくり返してみる。
けれども、出てきたのはキャンディーに、クッキーに、ビスケットに、チョコレート……
どれもこれも虫歯団の結成に一役買いそうなものばかりだったけど、お婆さんの探し物はついに出てこないのだった。
そんなこともあろうかと思って、鉢植えの下にお婆さんはこっそりともう一つのそれを隠しているのだし、その隠し場所を知っている者といえば、広い世界の中にあっても猫を除けばお婆さん一人だけなのであった。
よっこらしょっ、とお婆さんは鉢を抱え上げるとニョロニョロとミミズが現れた。
初めて空に浮かんだペンギンのように、小刻みに戸惑いながら……。

早速、猫は激しくステップを踏みながら闘いの意志を伝えるのだけれど、その波動は猫の爪の先で留まったまま地面から一センチさえも流れていかないのだった。
やがて、猫は小さな生き物を見下ろしながら、それが自分の敵ではないと悟ったように落ち着きを取り戻した。
そして、それよりもっと深い絶望を伴った落ち着きが、お婆さんの顔に浮かぶ。
入れなくなった家の前で、お婆さんは月を見上げた。
月はとても、丸かった。



やがて僕らは
合鍵を作る
技術を手に入れた

作ろうと決めたら
たった5分で
出来てしまうだろう

もうこれで
心配いらない

どこかで落としても
どこかで失っても

僕らはついに
合鍵を作る
技術を手に入れた

どんな複雑な形も
少しも狂いなく
合わせてしまうだろう

もうこれで
不安はないよ

どこかで離れても
どこかで引き裂かれても

もうこれで
大丈夫

僕らはだけど
合鍵を作らない

なぜか
どうしても
合鍵を作れない

僕らの
かえるところも
抱えられるものも
ひとつしかないのだから

いつもどこかで失うことに怯えながら

いつも
見ていることを
想っていることを
触れていることを

そして
恐れを
共有しながら

ようやくたどり着いた
到達点に
僕らは鍵をかける

ぎゅっと 強く

永遠に

代わりのない

キミと




その時、猫は立ち上がった。
鍵穴の奥を、のどの奥を熱心に探るお医者さんのように覗き込んだ。
そして小さな頭をくっつけると、ぐいぐいと押し付けながら無謀な前進を試みた。
けれども、徐々に猫の額が頭が首が吸い込まれ、ついには胴体までが見えなくなってしまった。
異次元の鍵穴の中で、猫は秘密の暗号を解きながらもがいていて、かろうじて外の世界に残っている尻尾が、あらゆる方向に揺れ動いている。
やがて、それは切ない形に落ち着いた。

        S     O     S

お婆さんは、猫の尻尾を握り締めると精一杯こちらの世界に引っ張った。
帰って来い、帰って来い、と言いながら月に照らされた綱引き大会が続く。
やがて、カチリと何かが回転する音と共に、猫が戻ってきた。

その横顔は、とけたバターで出来た猫のように不完全な猫だった。

猫とお婆さんは、色々あったけれどようやく家の中に入ることができた。
やっぱり、家が一番だ。
そして、一緒にお風呂に入った。











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真っ白い朝
2008-07-06 Sun 14:12
100円玉を拾って歩く男、タクシーを拾えない女。
その合間を縫って、猫は駆けた。
少年が道端に並んでいる自転車を、なぎ倒しながら歩いていく。
猫は、一段と速く、夜を駆けた。
銀色の鉄屑に向けられた腕力が、自分の方に行き先を変えない間に……。
急ぐんだ!
ホームまで。


   *

夢の中で、猫は空飛ぶ円盤を見た。
狭い狭い空の上で、きらきらと飛び交う円盤たち。
危険だ、危険だ、危険な夜景だ。
不思議だ、不思議だ、不思議な光景だ。
それらは、世界中を悪い夢のような恐怖と深い絶望で包み込むためにやってきた?
それとも、宇宙ワールドカップのとてつもなく新しい幕開けを告げる花火のような何か?
一刻も早く、猫は安全な大地を蹴って進みたかったし、どこまでも逃げて逃げて、せめて自分だけは生き延びたかったのだけれど、夢の中ではひとつとして身動きなんかできないのだった。
ひゅーひゅーと、こんなにもたくさんでやってきて、恐ろしいスピードで飛び回っていて、それでも誰にも当たらないのはどうしてなのか……。

猫は、夢の中で突然、赤い雷に打たれた。
そうだ!
父さんが、当たらないように投げているからだ!
どうにもならない不満が、限られた器の中に溜まり溜まって、とうとう満ちて限界に達してしまった瞬間に、父という生き物は自分の中から皿を取り出して一つ一つ投げ始めるものだ。誰一人待つことのない空へ向かって、あるいは届くはずのない星へ向かって、子供のように声を荒げながら……。
猫は、円盤の叫び声を聞いた。
眠りながら、ふるえながら。



壊さなければ
ならない夜が
あるならば

どうか私を
壊しなさい

私だけを
壊せばいい

当たらなければ
ならない夜が
あるならば

どうか私に
当たりなさい

私だけに
当たればいい

大丈夫
幾度でも
私は私になれるから

怒りと絶望の力で
どうしようもなく
砕き散るならば

どうか私を
選びなさい

かけがえのある私だけを




ようやく、真っ白い朝がやってきた。
猫も含めて、部屋中が白かったのは夕べの残骸が部屋中に落ちているためだった。
誰にも当たることなく夜通し飛び回って役目を終えた白い円盤たちは、今は粉々になりながら静かにここに落ち着いていた。
きっと、お婆さんも、同じ夢を見たに違いない。

「なんで、わたしが片付けなくちゃいけないのかねえ……」

小さな雨を確かめる時のように両手を天井に掲げて、それからふーっとため息をついた。
しわしわの顔が、今朝はより一層しわしわで、猫は秋のもみじを思い出した。
危ないのでしばらく動かないようにと言いながら、お婆さんはちりとりの中にとても慎重に、夢の欠片たちを集めていく。
もう再生することのない夢が、床の上から完全に消えて見えなくなるまでかき集められると、やがてそれは黒いゴミ箱の中で最後の鳴き声をあげた。
猫は、その様子を少しばかり憐れむように見つめていた。

その横顔は、7月の空の上を永遠に回り続ける雲のように真っ白だった。

「まったく、調子にのって回し続けるから……」

お婆さんの言葉に、猫は少しわからなくなった。
やはり、別の夢だったのかもしれない……。
それでいて、同じ朝にたどり着いたのだろうか?
結果として、同じ朝に。











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勇者
2008-06-30 Mon 18:10
200円払って、ポカリスエットを買う。
お婆さんは、少し震える手で小銭を返してくれる。
ありがとう、という。
ユウも、ありがとう、という。

毎日、同じ道を歩く。
全く、同じ。
昨日も、今日も、先週も、一年前も。


   「ねえ、先生。なんでみんな同じなんかな?」

   「日は昇り、日は沈む。当たり前じゃないか……」


あの日、先生が言ったように、今日もすっかり日が沈んでしまった。
ポカリスエットを一気に飲んでしまう。
この道に、しばらくゴミ箱はない。
だから、空っぽになった後でも、捨てることはできない。
わかりきったこと。
わかりきった道。



長い旅でした

小さなものから
倒し片付け
経験に変えました

始まりは不安でした

小金が少々
粗末な装備
やくそうを抱えて

険しい道程でした

地図にもない獣道
緑がいっぱい
溢れていました

出会いがありました

魔法じみていたけれど
不思議とすぐ打ち解けて
旅の仲間となりました

時と共に成長しました

自分が自分じゃないと
思えるほどたくさんの
悪を倒し滅ぼしました

何かが見えてきました

探し求めていたものです
最後の目的とその向こう側に
なぜかうっすらと寂しさが

多くを手に入れました

あり余る大金 伝説の宝物
友人たちの賞賛の声
まちの人々の笑顔と祝福

ようやくたどり着きました

ありえないほどの試練と
振り返ることも許されない
かなしみを乗り越えて

長い旅でした

とても とても

長い 旅でした


僕は選ばれた
たった一人の
勇者になれたでしょうか

ほこらの奥からドラゴンの声が聞こえます

  いいえ あなたは
  本日一万と一人目の訪問者です
  ようこそ

次の 旅が 待っています




空っぽになったポカリスエットが、ずっと右手に握られていた。
重く満ちていた時よりも、軽くなった今の方がなぜか重たい。
通い慣れた道は、旅にはならないけれど、今空っぽのそれはユウにとって唯一旅の仲間だ。
いつか、この真っ直ぐな道を越えて本当の旅に出て行くことを、黒い夜の向こうに想像してみる。
旅の仲間が、ヘッドライトにキラリ反射する。

徐々に夜は、それよりも黒い雲に覆われ始めていて、道はより寂しい道に変わっていった。
世界で最後の煙草屋を曲がった所には、きっと猫がいるだろう。
いつもの猫が……。
ユウが道を折れるとその先に見えたのは、猫ではなくふらふら運転の自転車だった。
ふらふら、ふらふら、としてやがてガシャーン、と転倒した。

 「立てるか? おっちゃん」

体に覆い被さった自転車を起こしながら、ユウは訊いた。
赤鬼のような顔は、何度も転げたせいか傷だらけで、鼻の上に薄っすらと赤いものも見える。

 「けど、杖がなあ……
  はあー、おまわりなんか知らん顔や……」

おっちゃんは、倒れたまま雲を見上げながら、杖のこと、他の色々なことに文句を言っている。
その時何者かが、ユウの背後から黒い影を作った。
振り返ると、警官が両手を膝に置いて様子を窺っていた。


ユウは、再び自分の道を歩き出した。
旅の仲間は、いつの間にかいなくなっている。
今日も、同じ道だった。
繰り返し、繰り返し、同じ道を歩く。
けれども、それは一度だけの道だ。

ユウは、一度振り返った。
そこにおっちゃんも、警官もいない。
そして、いつもの猫が座っていた。

その横顔は、一息で夜を塗り替える魔法使いのようだった。







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マイホーム・トレイン
2008-06-24 Tue 20:33
朝の通勤ラッシュが終わった時間、電車内はゆったりとしている。
お婆さんと猫は、ゆったりとくつろいで座っていた。

「本日も快適電車ご利用ありがとうございます!
 まるで、自分の家と思っておくつろぎくださいませ!」

いつものように決まりきった車内アナウンスだ。
お婆さんの前の席には、4人がけの席におばさん7人が幸せそうに座っている。
そのうちの一人が、紙袋の中からホールケーキを取り出すと、その隣のおばさんがどこからともなく紙のお皿を取り出して、早速切り分けたケーキを順番に食べ始めたのだった。

(まあ、なんておいしそう!)

猫と、お婆さんは、春の始まりに風と蝶が運んでくる花のそれにも似たなんとも言えないいい匂いにふらふらして、今にも倒れそうだった。
ごくり、とつばを飲み込む。



すべての場所は
我が家のように
遠慮は消えて

さあ 座れ
好きなところへ

すべての場所は
我が家のように
明かりは消えて

さあ お食べ
好きなものだけ

すべての場所は
我が家のように
我を通せ

さあ 叫べ
思いの丈を
すべて

思い残すことの
ないように

すべての場所は
我が家のように

いつも
荒れ果てた
我が家のように




静かだ。
けれども、まだいい匂いが残っている。
7人のおばさんは、ケーキを思い残すことなく食べていったというのに、そのおいしい残骸だけを残していったのだった。
猫は、早速近寄って、眠り姫にキスをするみたいに鼻先を近づけた。
それから、紙についたミルク色をぺろぺろと舐めながら、時折りお婆さんの方を振り返った。

その横顔は、どこに行っても迷子になってしまう雪の王子様のようだった。

お婆さんは、猫を呼び戻すこともせず、かといって自分も一緒になって参加するということもしなかった。
それは、どこにいてもどこかで神様が見ているような気がするからだったし、それは家の外でも中でも一緒のような気がするからだった。
しばらくの間、猫は舐めることをやめなかった。
その間に、猫とお婆さんの間をスケボーに乗った少年が、ジョギングをする紳士が、犬の散歩をする貴婦人が通り過ぎていった。
猫は、犬の視線に対してだけ、一瞬反応を示した。








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風待ち
2008-06-16 Mon 17:24
「3時までになりますが、よろしいですか?」

喫茶店ハイロウズのマスターは、言った。
ちらりと店の時計をみると、どうやら2時を少しだけ回ったくらいだった。
店内には、常連客らしい客がカウンターに一人いるだけで、お婆さんは奥から2番めのテーブルに猫と並んで座った。
流れているのはロックではなく、意外にもジャズでなかなかお婆さん好みの曲調だった。
さて、3時までに作りかけの短歌を完成させよう。
上の句だけで終わってしまって、続け方がわからなくなってしまった短歌をお婆さんは幾つも持っているのだけれど、勿論それは俳句をはじめ他のいかなる種類の詩としても成立していないものばかりだった。

 こんな時うどんがあれば走り出す ……

はて、どんな時だったかな?
なんで走り出すんだったかな?
猫に、ヒントを求めると、猫は早くも熟睡しているのだった。
アイスレモンティーの中に、当たり前のように浮いているレモンを眺めていると、作りかけの短歌よりも今ここに氷の上に浮かんでいるレモンについて、新しい短歌が浮かぶのではないかと迷いが生じてしまう。
そして、ほとんどの場合お婆さんは後から来た酸っぱさの方を優先させるのだ。
ふとカウンターの方に目をやると、女の子が座っていた。
先ほど常連客のように見えたのは、実は、この店の子供なのだった。
熱心にノートにペンを向かわせている、きっと、それは宿題なのだろう。

「急げよ! 時間がないぞ!」

マスターの声がした。
一瞬それは、自分に向けられたような気がした。
時間がないのは、むしろお婆さんの方だった。

「大丈夫、大丈夫。間に合わせる」
言葉通りに、ペンが加速していく。



ぼんやりと
流れていればよかったが
私は固い結晶と化した

キラキラと一瞬の
揺るぎなさから

粉々にわかれて
ふりだしに戻る

涼しげに
緩やかに流れは
続いていたけれど

キラキラの眩さに
ふつふつとして

浮き上がり
舞い上がった

ふわふわと
のんびり流れながら
浮いていればよかったが

キラキラと
キラキラと

恋しい地上に
降り始めた


いつも ただ
流れているようで
流されているようで

時に集合し 
時に分解し
時にいい気になって
時に号泣したりしながら

振り返れば私は
とても多くを
流れたようだ


キラキラ 明日が

透き通って




結局、勝ったのは子供だけだった。
お婆さんの創作活動は、再び路上に帰ってきた。
原点はいつも道の上にある、とお婆さんはつぶやいた。
肩の上に無理な姿勢で乗っている猫が、同意するように首を動かしていた。
歩いていけば、出会いがあるさ……。
そうしている内に、ベビーカーを押して歩く、若い母親とすれ違った。
少し遅れてシャボン玉少年が、泡を吹かしながら楽しそうに歩く。

「待ってよー……」

お婆さんの背中で、少年の声がした。
そして春風に乗って、少年の作り出した幻想の玉が流れてきた。
ふわふわと虹色に光り輝きながら、それはどういうわけか執拗に猫の頭ばかりを攻撃してくるので、猫はたまらずお婆さんの肩から飛び下りた。
そして、生き延びた泡々を追いかけて走り出した。

その横顔は、時の虹をかける猫のように透き通っていた。

「こらー、待てー!」
お婆さんが、逃げて行くものに向かって叫んだ。






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イルカになった猫
2008-06-10 Tue 01:59
第一のコースにイルカが上った。
きっと優勝するだろう。
イルカの落ち着き払った表情を見て、猫は思った。
第二のコースのレトリーバー、その隣のみにくいアヒルの子を、猫は目を見開いて観察してみたものの、とても敵わないと思う。
第四のコースにライオンが登場するとさすがに百獣の王だけあって、場内は一気に緊張感を高めたものだ。
続けてエントリーしたカバとの距離が、恐ろしいほど小さくて、猫はどんなに頼まれたとしてもあの二人の間を通り抜けることは絶対に絶対に嫌だった。
第六のコースには空を見上げながら、かもめのジョナサンが上がった。
初夏の空は、雲一つなく澄み切っていて絵の具で塗ったようにどこまでも青く、鳥になったら今すぐ飛んでいきたい空だったけれど、転げてもひっくり返っても猫の背中に翼は生えてこないのだった。

猫が空を見上げている間に、ジョーズが、皇帝ペンギンが、ヒトがそれぞれエントリーを終えた。
プールサイドで猫は、深くブルーになりながら長いため息をついた。
自分だけが、泳げないなんて……。
ただ、見てるだけなんて……。
生まれ変わったら、絶対にイルカになろう。
それがダメなら、アホウドリだ。
アホウドリのように強く、優しくなるんだ。



春になったり
カブトムシになったり
できるなら
占い師にだってなれるはず

鳩になったり
ビターチョコレートになったり
できるなら
弁護士にだってなれるはず

生まれ変わって
なれるなら
今だって変われる

夢中になったり
優しくなったり

好きになったり
得意になったり

できるんだ
なれるんだ


ビルになったり
豪華客船になったり
できるなら
工場長にだってなれるはず

風になったり
バレーボールになったり
できるなら
旅人にだってなれるはず

生まれ変わった
つもりなら
今だって変われる

強くなったり
優しくなったり

輪になったり
ひとつになったり



できるんだ
なれるんだ


翼になったりオーロラになったり
積乱雲になったりドラゴンになったり
カシオペア座になったり未来になったり

想像することが
できるなら

ほらね

キミはもう
変わり始めている




「さあ、これを着て!」

お婆さんは、手作りの水着を猫に手渡した。
そして、最後のコースには猫が意気揚々と立っていた。
ズドーンッ、と鳴ってレースが始まると、真っ先に飛び込んだのはやはり大舞台に慣れているイルカだった。
続いてほぼ同時にヒトと皇帝ペンギンとカバ、それから猫だ。
かもめのジョナサンは、飛び込むことなく飛び立った。
目指すは十六分割垂直緩横転か、その素晴らしいスピードあるいはアクロバットはやはり大きな空でこそ発揮されるべきものだったからだ。
お婆さんは、真っ白い旗を振りながら猫にエールを送っていた。
猛スピードで追い上げてきたジョーズが、カバの尻に食いつくとそこから海底をひっくり返したような大喧嘩が始まって、残念ながら彼らはレースから脱落していくことになるのだった。
そんなことには関係なく、レトリーバーはどこまでもマイペースだったし、みにくいアヒルの子の姿は、お婆さんのところからは確認できなかった。

先頭のイルカを追うのは、ヒト、続いて猫だ。
お婆さんの声援に勇気づけられながら、猫はついに疲れの見え始めたヒトを捉えた。
壊れんばかりに壁を蹴ってターンをすると、イルカを猛追した。
猫は、空を得たジョナサンのように速く、それは正にお婆さん製の水着がいよいよ真価を発揮し始めた証拠だった。
イルカは、ラストスパートに入ったところでプールから飛び上がり、二度三度と回転して大いにギャラリーを沸かせたのだけれど、皮肉なことにそれは自分自身の輝かしいゴールを遠ざけた。
自分の泳ぎに自信さえ覚え始めた猫は、とうとうイルカさえも抜き去ったのだ。

最後の手を伸ばした時、振り返れば驚くべき記録で、なんとそれは動物新記録だったのだ!
猫の次に入ったのは、意外にも皇帝ペンギンで、ペンギンは自分のタイムをみてしきりに頷いていた。
続いて、ヒトがゴールする時、イルカは壊れた時計のように空中に留まっていた。
そして、百獣の王ライオンは最後までその場を一歩も動くことはなく、その姿はやはり王様にふさわしいものだった。
表彰台の上に立った猫は、きらきらのメダルにそっと感謝のキスをした。

その横顔は、なれるべきものになれた子供のように黄金色に染まっていた。

お婆さんは、今すぐそばにいって抱きしめたかった。
けれども、しばらくは離れていることに決めた。
ヒーローになった猫を、遠くで眺めている……。
それだけで、お婆さんも幸せなお婆さんになれたのだ。








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夕焼けポスト
2008-05-27 Tue 22:37
どうしてもどうしても伝えたいことがあった。
由佳は手紙を書いた。
一ヶ月ぶりに歩く外の世界には、人や車や風が流れていたけれど、なぜか未来の世界に訪れてしまったような気がした。
窓から吹き込んでくる風とは違って、本物の風は大きく冷たくて、気を引き締めて歩いていなければどこか遠くへ飛ばされてしまいそうだった。
赤信号で足が止まると、右手の手紙をきつく握り締めた。立ち止まることの不安から足が震える。
けれども、青信号に変わる時には、それは歩き出すことへの不安に切り替わっているのだった。

変わることのない赤色の箱を探して歩き続けるのだけれど、いくら歩いても見つからず何度も見かけるのは灰色の箱で、それには天国と地獄を分けるみたいに
燃えるもの、燃えないものなんて書いてある。

どちらでもないものは、どこに行けばいいのだろう……。
あるいは、そんなものはないというのか……。

突然風が、未来からやってきた郵便屋さんであるみたいに水色の封筒をさらっていった。
燃え尽きそうな太陽の下で空全体が、まるでポストのように赤く染まっていた。



受け取ってくれる
箱が見つかるまで
私はずっと歩くだろう

風が吹いても
投げたりしない

灰色の口が
微笑みかけても
騙されない

受け取ってくれる
時が訪れるまで
私はずっと待つだろう

雲が鳴っても
離したりしない

闇が色を
包み隠しても
諦めない

私はずっと
持ち続けるだろう

赤い空の向こうに

あなたを描いて




お婆さんの郵便受けは、いつも空っぽだった。
だから今日も空っぽなのだけれど、お婆さんは毎日それを確かめに行くのだった。
それは朝のちょっとした運動のようなものであったし、当たり前の空っぽを確かめるのを少しも苦にしないお婆さんにとって、ほとんど習慣のようになっていたのだ。

「さーて、今日も空っぽかね……」

お婆さんが銀色の郵便受けを開けると、空っぽがどこかへ逃げ出していた。
なんと、そこには一通の手紙が入っていたのだ!

  < 辻 影踏 さまへ >

けれども、お婆さんは辻さんでもなければ、影踏さんでもなかった。
間違い手紙だ。
お婆さんは、しばらくの間、見たこともない名前を眺めていた。

その横顔は、ひらがなを習い始めて3日ばかりの少女のようだった。


猫は、お婆さんの手からそっと手紙を受け取ってくわえた。
影踏さん、待っていろ!
白猫郵便屋さんは、朝日に向かって流星のようにスタートを切った。








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一人稽古
2008-05-21 Wed 13:01
駅前は、まるでテレビのゴールデンタイムのようだ。
通る人も多いけれど、ライバルたちも多かった。
ヒロシは手当たり次第、通りかかる人に手を差し出した。
けれども、ペースは一向に上がらず残り2箱のノルマを抱えていることを思いながら時折俯いてしまうのだった。
まだ4月の間は、人々の手はもっと優しかったような気がする。

「どうぞ!」

必死に笑顔を作っても、次の瞬間笑みを向けた対象は何も見なかったかのようにヒロシのすぐ前を素通りしていき、届くことのなかった言葉と笑顔が行き場を失ったままいつまでもふわふわと浮いているのだ。
そうした小さな失敗を繰り返す度に、辺り一帯に不健康な空気が充満していくのだった。
まるでひとり芝居のようだ。
不意に、そんな気持ちになった。
そうだ。自分は今ひとりで芝居の練習をしているのだ。
発表の場は……、発表の日時は……、
まだ、何も決まっていなかった。
けれども、どうせだからうまくなりたい。
今よりも、少しだけでも。

「一つ、もらおうかね」

白い帽子を被ったお婆さんが近づいてきた。
肩には、猫が静かに乗っている。
ヒロシは、猫とお婆さんにそれぞれ一つずつ手渡した。
自分から来てくれる人ほどありがたいことはなく、少しだけエネルギーが補充されるような気がした。
けれども、やはりいい流れはそう続くことはなかった。
ズー……、ズー……、
少し離れたところで、お婆さんが鼻をかむ音がする。



未だ何でもない
未だ誰でもない
だから僕らは集まって

声を合わせて
メッセージはありません

何も発しない
何も表さない
けれど僕らは集まって

肩を並べて
メッセージはありません

言いたいことがなくても
黙ってるわけじゃない

声を大にして
メッセージはありません

どうしても
言わなきゃならない
ことなんかない

だから僕らは
叫ぶんだ
メッセージはありません




「どうぞ!」

けれども、疲れきったグレーのスーツは下を向いたまま通り過ぎていく。
本当に必要な人は、お金を払ってでも手に入れるのだ。
いくらでも、手に入れるのだ。
そして、少しも必要でない人は、ただであげるといっても見向きもしないのだ。
受け取ってもらうことは、本当に難しい。

全部を配り終えた時にはすっかり日が暮れ、三日月が青白く光って明日の天気を予言していた。
空箱を始末すると、疲れた足を引きずって歩いた。
アーケード通りを抜けて、橋を渡ったところで奇妙な光景が目に入ってきてつい足が止まってしまった。
それは、帽子のお婆さんと猫だった。
ダンボールの切れ端に短い文字が書き付けてあって、それがいくつも路上に並べてあるのだった。
お婆さんに訊くと、それは「猫短歌」というものらしかった。

「一つ10円じゃがね」
お婆さんの歯がきらりと光った。

その横顔は、月も見つめる千両役者のようだった。

「やすっ……」
思わず口に出る。
けれども、ヒロシは笑みを浮かべたまま歩き出した。
詩とか短歌などには、全くといっていいほど興味がなかったのだ。
訴えるように見つめている、
猫に小さく手を振った。










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