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冬の準備

「猫を見なかった?」

けれども、女は顔色一つ変えなかった。
その眼差しは、冷たくお婆さんを突き刺したまま瞬き一つしなかった。
赤いカーディガンから伸びた細い指先が、雨の日の熱帯魚のように輝いている。生まれてから一度も、ダイエットなどというものを必要としなかったであろうスリムなボディー。ファッション誌の20ページくらいを適当に開けば、現れるであろう完全な着こなし。若さ。羨望を込めてお婆さんは女を見つめた。
女は、身じろぎ一つしなかった。

「バナナダイエットって知ってる?」

それは一昔前に、まちである種の熱狂を持って流行した特異な形のダイエットである。
まち中のバナナを求めて、誰もが息を切らして駆けずり回り買いあさった。まるでバナナをたくさん持つことが、その人の社会的なステータスであるかのように。結果、まちからバナナが消えてしまった。人々は、バナナが消えるほどより一層バナナを探してまち中を歩き回り、時にはその労力は隣のまちへ、あるいは遠く離れたまちまちまでも及ぶことになったのである。一つのバナナを探すことに費やされる恐るべき情熱と運動量。そして探しても結局は見当たらなかった時の一抹の寂しさが、ダイエットにつながると固く信じられた。ブームは、なぜか突然に終わった。

「ねえ、そんなものがあったでしょう」

けれども、女は唇一つ動かさなかった。
やっぱりね。あなたには、必要なかったようね。
お婆さんは、沈黙のうちに赤いカーディガンを奪い取った。
今日から、これは私のもの……。
それでも、女は文句一つ言わなかった。
露わになった白い腕の先に伸びた細い指先が、12月を走る涙のように光った。



紙があった
誰かが折った
私も折った

そのようにして
キミをまねた

キミの仕種の
一つ一つを
私はまねた

キミは私の大いなる
お手本だった

ボールがあった
誰かが追った
私も追った

そのようにして
キミをまねた

キミの走りの
一つ一つを
私はまねた

キミは私の大いなる
憧れだった

一つ一つ
キミの形を追って
その意味さえ知らなくても
私はずっとキミのすべてに
ひかれ続けた

いつか私は
キミのように

いつだって私は
キミのように

なりたかったんだ




何も言わない女は、少しだけ寒そうに見えた。
お婆さんは、今まで自分が着ていた色あせたカーディガンを代わりに着せてあげることにした。
女は、少しだけうれしいような少し困ったような複雑な表情を浮かべたように見えた。

「一つ、教えてくれる?」
「私は、これからどこへ行ったらいい?」

女は、何も答えなかった。
けれども、次の瞬間、お婆さんのぼろを纏った腕がゆっくりと動き始めた。徐々に持ち上がった左腕は、あるところまで来ると突然止まり、その指先がお婆さんのこれから進むべき方向を指し示していた。腕は動いても、顔は依然として前を向いたまま動かない。

その横顔は、創作が始まる以前のノートのように真っ白だった。

人形の指示に従って歩いていくと、レジでは猫が一足早くお婆さんを待っていた。
赤い手袋をくわえながら、少し待ちくたびれた様子だった。
そうそう、手袋も買わなくちゃね。
お婆さんは、猫から手袋を受け取った。






テーマ : 恋愛詩
ジャンル : 小説・文学

雲隠れ

世界は回っている。
幸か不幸かわからないまま、出会いと別れを引き連れて。
世界は回っている。
あまりに速く、回っていることを忘れてしまうほど。
世界は回り、回りすぎておかしくなっていく。

「ああ、神様!」

回転を終えた世界の中から帰ってきたものは、すっかり見違える姿になっていた。
お婆さんは、無理に体を細めて進入を試みたけれど、頭を入れることもままならなかった。
すっかり途方に暮れていると、世界のどこかから猫が歩いてきた。暖炉にあたるように身を寄せてきた。
寒いの?

「これはおまえにあげよう。これから、もっと寒くなるからね」



10周回って走り出す
世界はまだ回っている

キミの元へ
駆け寄ろうとするが
回っているのでたどり着けない

青と白が交錯する

回っているのは
世界か私か

世界の中心は
どこにもあって
どこにもない

10周回って立ち止まる
世界はまだ揺れている

自分の元へ
留まろうとするが
揺れているので揺れている

赤と黒が交錯する

揺れているのは
母か私か

世界の中心は
どこにもなくて
どこにもある

10周回って思い出す
世界はまだ回っていた

おかしくなりながら

誰かが呼んでいる




「御免ください」

お婆さんの家を人が訪ねるのは、久しぶりだった。
隣の町からわざわざやってきた女は、野菜を売ってくれるという。白いTシャツの胸の真中でカボチャが能天気に笑っていて、黒い長靴の先には今畑から飛び出してきたように土がついていた。
「あらあら、遠いところから」
お婆さんのセーターを着た猫は、小さな雪ダルマのように見えた。
女が視線を向けると、雪ダルマはますます小さくなった。
「あらあら、かわいい猫さん」
女が手を伸ばすと、小さくなった雪ダルマは、もっと小さくなって雪のてるてる坊主のように小さくなった。
「知らない人が来ると、縮んでしまってね」
てるてる坊主は、首を垂れながらお婆さんの背中の後ろに逃げていった。

その横顔は、3月の雲に溶けてゆくたんぽぽのようだった。


お婆さんは、コマツナを中心としてコマツナと愉快な仲間たちのジュースを作った。
ミキサーの中で魅惑のハーモニーを奏でて混じり合う、豊かな自然。
お婆さんの瞳の奥は、人里を遠く離れてやがて森の緑に染まっていった。

世界は、いつも回っている。
寝ても覚めても回っている。
回りすぎるので、おかしくなってしまう。
猫は、暇を見つけてかくれんぼする。


テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

あふれる猫

いつものように、猫は転がっていた。
まどろみながら、くるりと回ると猫にぶつかった。
見覚えのある見知らぬ猫だ。
懐かしく疑いながら、くるりと回転する。
今度も、また猫にぶつかった。
おちおちと眠ることもできずに……。




猫の額のように
狭い部屋の中には
ギザギザの十円玉が
転がっている

拾い手のない円周率が
ことを円満に
狭めていくように

遠慮のない調子で
転がっている

片付ける場所はないから
足の踏み場もない

過去の期待のように
狭い部屋の中には
ひねくれたハンガーが
転がっている

掛け値のないカーブが
ことを複雑に
交差させるように

伴侶のない様子で
転がっている

足の踏み場はないから
片付ける術もない

明日の希望ほど
縮まった部屋の中には
昨日の自分が
転がっている

鏡に映らない面影が
鋭気だけを
吸い取るように

何もない形で
転がっている

誰も片付けないから
昨日だけが
重みを増して

今日を狭めながら

積み重なっていく





折り重なるように転がった。
次第に猫の数が増えていることに驚きながら……。
猫は所狭しと駆け回った。

その横顔は、昨日に向かい尾を立てる猫のようだった。

「お婆さん、大変だ! 猫屋敷になってるよ!」

けれども、お婆さんは猫だけを見つめていた。
太陽のように、じっとして。
皺の数ほど落ち着いていたのだ。




テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

さよなら、ちゃんこ

どうしてこんなに寒いのかと考えると、それは冬だからだ。
冬が寒いことが、良いことなのか悪いことなのか普通のことなのか、お婆さんにはよくわからないことだった。長く生きていて未だにわからないのだから、きっと最後までわからないのかもしれない。最後とは……。冬の最後とは、どのような形で訪れるのだろう? お婆さんは、時々このようなことを考える。考えるとお腹が空く。とりわけ寒い季節などは、温かいものが食べたくなる。

「御免ください」
お婆さんは、早速ちゃんこでも食べようかと思いつき、ちゃんこ鍋の店に入った。
やはり、寒い時には鍋が最も温まる食べ物であったし、鍋の中に入れることで色々なものが食べられるため、味は勿論のこと栄養のバランスについても申し分ないことこの上ないとお婆さんは日々考えているのであった。

「それでは、ここにはちゃんこはないと?」
店の人は、誠に申し訳ないといった顔で、首を振っている。
ちゃんこはおろか、他のいかなる鍋も、それどころかそこには食べ物一切がなかったのである。
なぜなら、そこは自転車屋さんだったからである。
お婆さんは、がっくりと肩を落としながら、自転車を購入した。
お婆さんは、空腹を満たす代わりに自転車を手に入れた。人生は、どこでどうなるかわからない。ふと、そのようなことを考える。
自転車を押しながら、店を後にした。
前のカゴには、猫が納まっていた。



さよなら 幻の冬

私が目にしたのものは
私が目にしたいものだった

だから私は去ってゆく

本当はちがう風景を
眺めながら

私は去ってゆく


さよなら 幻のキミ

私が訪れた場所は
私が訪れたい場所だった

だから私は逃げてゆく

本当はちがう風景を
想いながら

私は逃げてゆく


さよなら 幻の時

私が手にしたものは
私が手にしたいものだった

だから私は振り返る

本当は違うぬくもりを
夢見ながら

私は振り返る



本当はぜんぶが ちがっていた

私が見たかったもの 触れたかったもの

私が逢いたかったのは



さよなら 幻の冬

私が目にしたものは
私が目にしたいものだった

だけど私は倒れない

ほんの少しは

よろめくけれど




大通りは、帰宅を急ぐ人々で溢れていた。
家に帰れば、きっと温かいものが待っているのだろう。そうだ、それはちゃんこ鍋かもしれない。
鍋から沸き立つ湯気が、視界を塞ぎ、お婆さんは一瞬よろけそうになるが、なんとか心身の姿勢を立て直した。実際それは、猫の吐き出した白い息に過ぎなかった。
お婆さんは、猫を乗せた自転車を押しながら夜を歩いた。
交差点に差し掛かると、人々が皆、鍋の中の野菜の色が変わるのを静かに待っていた。

「もういいでしょう」
誰かの合図で、人々が鍋をつつきながら思い思いの方向へ渡り始めた。鍋をつつく人々は、皆にぎやかだった。
鍋の交わりの後で、人々の声は漆黒の夜の中に溶け込んでいき、やがて人足も疎らになった。
表通りを逸れたところで、ついにお婆さんはサドルにまたがった。発進の瞬間こそ少し不安定だったけれど、お婆さんは逞しく自転車をこいだ。
急速に変わってゆく街の風景に、猫は目を見開いた。

その横顔は、温かい鍋の中で震える豆腐のように白かった。

猫は知った。視点が変われば、世界も大きく変わってゆくことを。
そして、お婆さんの中にある底知れぬ力を……。





テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

月と猫と冷蔵庫

締切りに追われて、ペンは走った。
膨らんだお婆さんの指の中で、黒い逃亡者は爪先からあらゆる狂気を滲ませながら疾走して、お婆さんの手を腕を心を引っ張っていく。小さな窓の遥か向こうで、艶やかな月が角のない視線を原稿の上に送っていた。
優しい光に吸い込まれるように窓辺に移った猫は、部屋の中に目まぐるしく影模様を創り出したけれど、お婆さんはまるで月も猫も存在していないかのように前を向いたままだった。
ペンは走った。ゴールを目指しひたすら走り、そしてとうとう空っぽになった。
お婆さんの指がいくら動いても、白い。猫の背を、猫の尾を、猫の横顔を黒く塗ることはできない。

「また、終わった」

お婆さんは、空洞のロケットを握り締めて窓から打ち上げた。
猫の見る限り、ロケットは曇りなく飛んで月に命中し、そして世界は真っ暗になった。

「おやすみ」



みんなが眠ったあと
夜の静寂を突如破る
歌がある

僕はあと一週間
私はあと数日
我はあと千年

冷たい場所より
漏れるささやき

夢に架かる再会の橋
たどり着くより早く
歌は届く

僕はあと半日
私はあと三日
我はあと十億年

白い扉の向こうより
搾り出る嘆き

空が海に還ったあとにも
止まない雨のように
歌は続く


嗚呼 どうしてか
こんなにも時間のない
ものばかりを
抱えたのは


僕はあと一日

私は




「おやすみ」
そう言って、まだ間もない頃に、お婆さんはベッドを捨てた。
真っ暗な世界に、白い猫を残したまま、お婆さんは家を出て行ってしまった。
猫は、追わなかった。
抱え切れなくなった時には、それが真新しい春でも、終焉に向かっていく秋でも、終わりの見えない夏でも、あるいは月の見えなくなった夜にだって、人は逃げていくものだ。ひとり水平線を駆けて行く猫と同じように……。
追えない、けれど、待っている。
猫は、寂しさのオーケストラが閉じ込められた白く冷たい箱に、頬をすり寄せた。

その横顔は、幽霊船の上で人魚の鼓動を確かめる冬の漁師のようだった。

小さな扉がひとりでに開くと、猫は瞬間後ずさりした。
冷蔵庫の中から、宇宙があふれ出てきて、宇宙の明るさのせいで家中が明るくなった。
月が、一歩前に出て、ノラ・ジョーンズを歌い始める。
猫は、うっとりと目を細めながら両手をすり合わせた。
嗚呼、とても、とてもまぶしい。






テーマ : 詩・唄・詞
ジャンル : 小説・文学

素敵な一日

今日は、猫と一緒に丘に登りました。
今日は、とても良いお天気の一日でした。
丘の上では、紅葉がにっこりと笑いあったり、しっとりと相談しあったりしていました。
丘の上で、ゆっくりとしていると、今日は太陽もとてもゆっくりとしていました。
丘の上からもうちょっと丘の上の方へ行くと、丘の上で釣り人と出会いました。
「何か釣れますか」と尋ねると、釣り人は、「何も釣れません」と答えました。
「今日は調子が悪いですか」と尋ねると、釣り人は、「今日は特に悪いです」と言いました。
釣り人のバケツの中は空っぽで、猫は、顔を近づけておいしそうに水を飲みました。
「今日は、天気は良いのにねえ」と言って、釣り人は照れながら笑いました。
それから、もう少し丘の上に登りゆっくりしました。
持ってきたお菓子を、猫と一緒に食べました。
お菓子を食べると、こりこり、ほりほり、とお菓子が弾ける良い音がしました。
それから、どこからともなくキノコご飯が炊き上がったので、猫と一緒に食べました。
それから、満腹になったので、ゆっくりと昼寝をしました。
それから、もう十分にゆっくりした頃、猫と一緒にもっと丘の上に登りました。
一番丘の上まで登ると、エレベーターがあったので、猫と一緒に丘の下まで降りました。
今日は、とても猫と一緒でした。



何もないよ
否定の王様が言う

ここでは何も
寂しくもなく
恋しくもない

否定の王様
打消しの銃を
乱れ撃ち

ひとつふたつの出会いを
なかったことにしてしまう

始まりもおしまいも
何も何も
意味なんて
ない

幻でしか
ない

何もないよ
否定の王様が言う

ここには誰の
声もなく
笑みもない

否定の王様
打消しの銃を
乱れ撃ち

ひとつふたつの喜びも
なかったことにしてしまう

これまでもこれからも
何も何も
希望なんて
ない

幻でさえ
ない

否定の王様
打消しの銃を
乱れ撃ち

すべてを打消してしまう

何も何も何も
何もないよ

私でさえ




束の間の眠りから覚めた猫が、下りてきてマウスに噛み付く。電子頭脳につながれたマウスは、逃げる場所も術もなく、猫の小さな気まぐれに捕まってしまう。カリカリと爪を立てると削除ボタンが選択される。
「本当に削除しますか?」
はい。猫が静かに返事をすると、お婆さんの日記は跡形もなく消えてしまった。
何事もなかったように、猫は床上に着地し、お婆さんの方を振り返った。

その横顔は、秋空に走る一本の打ち消し線のように真っ白だった。

「よくあることさ」
お婆さんは、強気に言い放った。
特に誰が見るというわけでもないしね。
それに、あってないようなことばかりだったし……。
一日を顧みるようにして、猫の瞳を覗き込む。
瞳の奥では、赤々とした秋の中で釣り人の糸が垂れていて、その先にはカラフルなお菓子たちが優しい風に舞っている。心地良い風は、時折情熱的な子守唄となって眠りを誘う。むにゃむにゃ。
ジリリリリン…… ジリリリリン……
お婆さん、電話ですよ。お婆さんを呼ぶ、猫の声が聞こえる。

埃を被った受話器を、お婆さんは久しぶりに取った。
「もしもし。」

「あっ、間違えました」

……。




テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

空っぽシンフォニー

フタを開けると、空っぽだった。
3分の間、お婆さんはここを動かなかったし、じっと楽しみに待っていたのだ。
3分後にできあがるおいしいヌードルを想像して、わくわくと待っていたのである。
それが、その結果がこうだった。

「3分も待ったのに……」
お婆さんの口から、無念さが零れ落ちる。
沸々としたお湯を注いだのは、今から3分ほど昔のことであった。
お婆さんは、時々昔のことを振り返り、あれは本当にあったことだろうか、物語の中で体験したお話だったろうか、あるいは自分の空想が創り出した出来事であっただろうか、と首をひねったり、微笑んでみたりすることがあった。そしてほとんどの場合、本当のところはわからことが多かった。わからないから過去なのだし、わからないほど過去なのだし、また、わからないから微笑んでもいられるのであった。猫と一緒に落ち葉の中で踊りながらバスを待ったこと、メラメラと燃えさかる人形から走って逃げたこと、クルクルと回る傘の上で猫が踊っていたこと、その遥か上には8色の虹が架かっていたこと、なんてあれやこれや……。
けれども、たった3分前のことを振り返りながら、これほどの疑いを抱いたことはない。

「どうしてくれるの……」
お婆さんの口から、どうしようもないつぶやきが漏れ落ちる。
落ちて、空っぽの器の中で反響している。
お婆さんは、元々空っぽの容器に、胸いっぱいの期待を注いだのだろうか?
猫は、ソファーの上で踊っていた。落葉が踊るように、枯れた踊りだった。



最初の最初
みんなみんな
空っぽだったのに

思い出すのは
満ち満ちた
時ばかり

幻であったなら
どうしていつまでも
離れないのか

歩き始めた私は
ふわふわとした
空っぽだったのに

近寄ってきたのは
厄介な厄介な
重みばかり

幻であるのなら
どうして幾重にも
重なり続けるのか

海のゲートの向こう
白い猫が手招いている

けれど記憶の色が
私の足を遠ざける

進めない もう

戻れない

空っぽの私




踊りつかれた猫が、ふらふらと近づいてきた。
何かちょうだい……。
「欲しいのは、あたしの方だ」
何でもいいからちょうだい……。
お婆さんは、猫のおねだりに負けて海の缶詰を開けた。
威勢よく開けると、中は空っぽだった。
猫は、空っぽとお婆さんに交互に視線を移す。しばらくの間、繰り返し繰り返し移していたが、やがて疑問の照準はお婆さんの前髪一本に絞られた。
お婆さん……。
何かちょうだいと言ったのに、何もないのはどうして?

その横顔は、遥か火星の海の上で新しい波を待っているサーファーのようだった。

お婆さんは、次々と缶詰を開けたが、いずれも結果は同じであり、最初のうち、猫は期待を込めて近づいていたけれど、そのうち一歩離れた場所から眺めているようになった。やがて家の中は、空っぽの海が奏でる静寂のシンフォニーに包まれていた。
その中で、猫はミューと鳴いた。
「空っぽになったら、なけばいいんだね」
猫と一緒に、お婆さんも泣きはじめた。
しばらくの間、競い合うようにないていた。








テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

生みの苦しみ

お婆さんは、餅になって待っていた。
呼ばれることを待っているはずなのに、餅になっているとなぜが自分が食べられることを待っているような気がしてきた。
食べ物の姿になって、初めて食べられる身の気持ちがわかり始めたのである。
「204番のカードでお待ちの方!」
過去の記憶を頼りに、はい、と返事をしたけれど、餅になっているためうまく声が出せない。微かに皮の表面をぶるぶると震わせることが精一杯であり、それさえも錯覚にすぎないのかもしれない。餅になっているということは、不安の中に閉じ込められているということでもあった。

「はい! はい!」
お婆さんは、喉を振り絞って声を出した。私は、ここです。これが私です。
けれども、いくら振り絞ってみたところで、言葉のたまご一つ、お婆さんは生み出すことができなかった。
205番のカードでお待ちの方。206番のカードでお待ちの方。207番のカードでお待ちの方……。
お待ちの方が、次々と呼ばれ、お餅であるお婆さんを追い越しては席に着いて行く様子をただじっと見守っていると、わんわんと泣き出したくなったが、そうすることができないということも、もう既に気づいていたのである。
お婆さんは、徐々にぷっくらと膨らみ始めた。泣くことはできなかったが、膨らむことはできた。それはお婆さんの内なる炎がメラメラと燃えていたためであった。

猫は、おいしそうな匂いに吸い寄せられるように、餅に近づいてきた。
ぷっくらと膨らんだ餅を、ぱくりと呑み込んだ。
そして、口の周りをぺろりと舐めた。



私が私であった頃
あなたは私を知っていた

けれども私は
私だったろうか

私が私であった頃
あなたは私を愛してた

けれどもあなたは
知っていただろうか

私が私であった頃
もう一人の私が私の
影から私を見ていた

私はある時
私を失いあなたは
私を去った

私は
今はここに
いる

見つけることは
できますか

変わってしまった

今の
私を




「204番のものです」
猫がしゃがれた声で言った。
けれども、受付の人は聞こえないふりをしている。

「私が204番ですが」
椅子から立ち上がりながら、なおも猫は言った。
言いながらも、猫のお腹はどんどん膨らんでいた。
受付の人は席を立ち、後ろの方へ下がってしまった。
猫は、膨らんだお腹をしきりに叩いている。和楽器のように良い音がする。
さっき食べた餅が、どうやらお腹の中で、何かを主張しているようだった。
受付の人が戻ってくると、猫に容赦なくコショーを振りかけた。避ける暇もない素早さに、流石の猫も堪忍した。

その横顔は、降り注ぐのりたまをじっと受け入れている白ご飯のようだった。


猫が吐き出した餅は、まだまだ膨らんでいてやがて見上げるほどになると、猫はじりじりと後じさりし始めた。
ボーンッと音が弾けると、餅の中からお婆さんが生まれ、猫はその場でひっくり返った。
「204番のものです」
早速、お婆さんは席に着く。今度は、本当のお婆さんだった。







テーマ : 自作詩
ジャンル : 小説・文学

工場見学

朝から晩まで作っているのである。休憩時間を挟んだり挟まなかったりして作り続けているのである。雨の日も小雨の日も大雨の日だって作り続けているのである。
降る日も降る日も、来る日も来る日も作り続けて、そうして何百年と続いてきているのである。
そういうことになっているのである。

「今日の仕事は明日に残さず!」
  「残った仕事は今日の間に!」
    「考えるより、とにかく動け!」
      「口より体、とにかく動け!」
        「準備を笑うものは順番に泣く!」
          「動く前に、よく考える!」
            「言ったことは、てこでも守る!」

工場長が社訓を大きな声でのたまうと、それに続いて従業員が社訓を繰り返す。ピリピリとした朝の空気の中で、厳かに繰り返される。社訓は全部で7つあって何百年と続いている社訓であった。毎日繰り返されることだから、もはやすべての従業員の頭の中にすっぽりと入っているものでありながら、それでいて一日も欠かすことなく続けられているのは、人間の忘れやすさに配慮しているというよりも、古くからの伝統を重んじる工場の儀式として定着しているためであった。社訓が終わると、次は準備体操である。

その頃、副工場長は屋根裏ですやすやとしていた。

怪我のないように念を入れてやること。工場長の指示によって準備体操は世界中のどの工場よりも念入りに行われる。
まずは足の指先から行われる。それが済むと、今度は反対の足の指先である。それが済むと爪先を全体的にほぐすのだ。そうして足の裏、踵、足の甲の部分、足首へと進む。工場長の目が、いたるところで厳しく光っていて、準備体操だからといって少しでも手を抜こうものなら、それは準備不足に当たると言って社訓を述べるところからやり直させられたり、工場の周りを3周させられたりするのであった。たかだか3周といっても、大きな工場であるため、朝一番の運動としてはとても厳しく、小さな村なら村一周にも匹敵する。中には、地球7周にも勝ると主張するものも、過去にはいた。その何人かは、引退したり他所の国へ移住したりして、もはやここにいない人々であった。
準備体操は、足の指先から始まって少しずつ少しずつ1円玉が貯まっていくような速さで這い上がっていき、膝まで到達すると一旦休憩となる。

その頃、副工場長は一足遅く下りて来て、皆の顔を見てまわっている。

準備体操が再開されると、もう一度足の指先から始まることになる。
休んだ間の勘を取り戻すためには、それが運動学的にいって最も正しいやり方なのである。けれども、そこは一度ほぐされている箇所だけあって、やはり最初と全く同じというわけではなく、多少軽めに、ペースを速め行うため思ったよりは早く膝の部分まで到達する。そして膝の部分というのは準備体操の中でも最も重要視され、最も時間を費やす部分であって、準備体操の大半の時間を占めていると言ってもさほど過言ではないのであった。膝の部分が終わると、準備体操はそこからいよいよ頭の天辺へ向けて一気に駆け上がっていくのだ。
そうして準備体操は念入りに行われ、終わったところでいつも昼休みになる。少し手前で終わってしまう日もあるにはあるが、そうした日であってもだいたいそのまま昼休みになるのが慣例であった。

工場が、本格的に動き出すのは、昼からである。
「さて、来週はいよいよ工場見学があります!」

工場長が、発表すると、従業員の顔は皆一様にレンガのように固くなった。
レンガはキョロキョロと他のレンガを見回し、無数のレンガが工場内で交じり合った。
そして、今にもそれは冷たくひび割れ、壊れてかけそうなのだった。
誰一人として、何も言わずモアイ像の親類のように地面にくっついていた。
ただ、副工場長だけがペタペタと工場内を歩き回っていた。
あまりに静かであったため、そのペタペタは、工場の隅々までも、
響いた。



準備を積んで積んで
僕らは強くなる

第一関節から
ぼちぼちと
強くなる

準備の煉瓦を
積み上げて
さあ今日も
鉄くずの街へ出かけよう

準備を呑んで呑んで
僕らは影になる

第一候補から
ばちばちと
散っていく

準備の不安を
呑み込んで
さあ今日も
人形の街へ出かけよう

準備準備準備
準備準備準備準備
準備準備準備

まだまだ準備
まだまだ準備

準備準備準備準備
準備準備準備準備準備
準備準備準備準備

さあさあさあさあ
さてさてさてさて

何かに創られた
僕らだからさ
きっと何かを
創り出せるだろう

さあ諸君

生産ラインを確保せよ

準備はいいかい




「子供を騙せるだろうか?」
      髭が、鉄を叩きながら言った。

さあ、どうだろうかと、メガネがメガネの向こう側を曇らせる。
大人は騙せてもな……。長身が泥を丸めながら、口の中で言葉を噛んでいる。
騙せっこないっしょ。太っ腹が小麦粉にトントンしながら語りかけた。
おおかみよ。長老が石を撫でながら静かに吼えた。

「俺たち何にも作ってないもーん!」
            ぶっちゃけ馬が嘶いた。

髭も、メガネも、長身も、太っ腹も、長老も、ぶっちゃけ馬も、みんな家の人にうそをついていた。
うそをついて、つき続けて毎日工場にやってきていた。それは優しいうそだった。それは厳しいうそだった。家の人を安心させたいという同じ思いからみんなみんなうそつきになっていたのだった。いつからそうなったのか、それは誰にもわからなかった。最近になってからの話のようでもあったし、遥か昔から、あるいは最初の最初から何もかもがうそで始まったようでもあった。願わくば誰かが傷つくことのないうそであってほしい、そしていつかうそから本当が生まれたら、幸せか何かに変わったらいい、そのような思いの中で、今日まで静かにうそは続いていたのだ。

工場見学。
その横顔は、真の星から飛来する隕石のようなものだった。
無数に射し込んで来る光の帯を、みんなが恐れていた。

「何かを作っているように、
 一生懸命に、
 見せること」

工場長が、社訓を歌うように言った。
けれども、誰も言葉を繰り返すことはなかった。
猫だけが、お婆さんの足下に擦り寄ってきて、
小さく鳴いた。






テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

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junsora(望光憂輔)

Author:junsora(望光憂輔)

おかしな比喩を探し求める内に
いつしか詩を書きはじめました
たいした意味などありゃしない


旅の途中の紙くずたち
今日も散らばって行こう
いつも破り捨てられても

猫と婆とそんな横顔はリンクフリー
「喜多さん、いいとこばっかじゃねえか」

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「行き先のないバスに乗って
 あてのない旅をしています」

「僕たちは心の旅をまだ
 始めたばかりなんです」



「この場所は自由な場所。
 本当に自由すぎる」
「でもまだ足りないんです」





「春の足音を、
 しばらく前に、聞きました。
 私はもうとけてゆきます」
「大いなる誤解が
 とけていく速度で…」






『落書き』

偶然たどり着いたこの場所
あなたは何を探していたのです

求めるものと目の前にあるもの
それはどれほど違っていても
みかんの色は変わるのです

あなたという存在が
あなたを囲む海や人や森が
歌い励まし騙し傷つける頃
空想の世界の中で
生まれ変わるならば
いつかそれは
求めるものと同じであったか
近づいていくこともあるのでしょう

偶然目に触れた落書きに
こんなことが書いてあるとは
思わなかったでしょう
だからそれを望んで
これを書いたのです

少し時間を
無駄にさせてしまったね






『空白の壁ときみ』

壁が空いているから
ここを詩で埋めようかな

何も書くことはないけれど
何もない時だって
詩を書いていいんだよ

何もなくても
聴きたいときがある
きみの声を

点滅するバスは
行き先を決めかねているけど
もう詩は出発したよ

年中融けない雪だるまが
上で見てるんだ
これでまた融けにくくなった

壁が空いているから
サンドイッチのない詩を
猫に内緒で書いてる

見つかると嫉妬するからね

寝静まった頃静かに書いて
きみもやっぱり静かに読む

見知らぬきみ
またここで落ち合おう

きみの空いてる時間にね






『そんな横顔』

獣のような 大声で
どこかで 叫んだケダモノ
気高さを保ったまま
毛玉を嫌う ケダモノ
そんな生き物が いるのだろうか

僕らは 
不思議な生き物を見るような目で
不思議な生き物を眺めるんだ

1000年前から生きてるみたいに
落ち着いて 慌てない
何でも知ってるような
そんな横顔で
質問には 答えることもない

それでも 僕らは
昨日生まれた ばかりのような
そんな横顔 してたんだから
不思議な生き物 眺めるような
そんな横顔 してたんだから






『片隅』

ノートの片隅に
詩を書いている
誰に見せる
あてもない

頭の片隅に
詩を留めている
未だ現れる
気配はない

カフェの片隅で
詩を書いている
誰に会う
約束もない

世界の片隅で
詩と向き合っている
そうしていると
寂しくもない






『できそこない道』

完成することのない
できそこない道を
僕は歩いている

進んでいるのか
戻っているのか
それさえわからない

それでもかえれない
できそこない道を
僕は歩いている

つまずくことばかり
挫けることばかり
たどりつくこともない

どこにもかえれない
できそこない道を
僕は歩いている






『なきうた』

理由もなく
泣きたくなるのです

二月が終わる頃になると
遥かなる距離を越えて
オレンジの光が
届いたのを知った時

理由もなく
泣きたくなるのです

小さな息吹が
青白い風の中に
溶け込む匂いを知った時

私は生まれるよりも
遥か前のことを
思い出しながら

理由もなく涙を流し
歌わねばならない
という理由において
歌うのです

遠い過去の人である
私の声が
あなたの元へ届く日を
想像したりしながら
























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