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2009-06-24 Wed 15:39
お婆さんのペンが走っている。
猫が話しかけても、お婆さんは振り向いてさえくれない。 「時間がないんだよ」 そうだ。時間はない。 この世に時間なんて存在しないのだ。 その証拠に、あの時計ときたらいつも同じ場所を回っている。 お婆さん、ねえ遊ぼう。 けれども、お婆さんはペンと共に走り続けている。 猫は、窓から飛び出した。 庭の木に飛び移った。 猫は、時々は、木に登る。 運動不足を感じた時や、どこか無性に遠くに行きたくなった時……。 それから、お婆さんに置いてきぼりにされた時などだ。 猫は木を駆け上がった。まるで何かと競争しているように。 あっという間に、お婆さんの家が小さくなっていく。 みるみる小さくなっていき、豆粒のように小さくなった。 随分遠くまで来てしまった。きっと、もうお婆さんの声も聞こえない。 浮世離れした高い場所で、蜘蛛が網をかけていた。 一生懸命に働いていて、猫が来たのにも気がつかない様子だった。 「こんなところに張っても、誰も来ないよ」 猫は、優しく教えてあげた。 キミが教えてくれた 喜びを頼りに 私は回り続ける うれしかったよ 楽しかったよ 生きていて 生きていて キミが教えてくれた 痛みをバネに 私は飛び続ける くるしかったよ 死にたかったよ 生きていて 生きていて 私はおぼえていたよ それぞれのキミのかけらを 今度は私が教える番だ 生きていて 生きていて やがて訪れるキミに 「キミが、来たじゃない」 蜘蛛は、冷静に言った。 それからまた、糸を紡ぎ始めた。 それは違うよ。キミの待っているものと訪れたもの。それはウサギの期待に対しての亀の寂しさ、雪の待ち人に対しての傘の骨、虫のささやきに対する猫の瞬きのように、別の場所に位置するものだよ。 けれども、蜘蛛の直向な姿を見ている間に、猫は理屈のすべてを屁理屈のすべてを言葉のすべてを壊れた時計の中に封じ込めた。 来るべき時が来たら、それは蜘蛛自らが知るべきことだ。 「蜘蛛よ、寂しさのひとつを大切に……」 遠くでお婆さんの呼び声が聞こえる。 聞こえるはずはない。それは猫が決めたこと。 地上を見る。爪が震える、耳が震える、体中の毛が震えている。 お婆さんのことを忘れている間は、平気だったのに、お婆さんのことを思い出してしまうと、自分がどうしようもなく高い場所に来たことに気がついてしまったのだ。 過ぎた冒険への後悔に、猫は微かに喉を鳴らした。 その横顔は、不安のかけらをかき集めてできた浮雲のように白かった。 蜘蛛は、ゆっくりと糸を下ろしはじめた。まるで、猫の心を読み取ったように。 それは、とても細く頼りなく、瞬きするだけで見失ってしまうような糸だった。 けれども、それは果てしない物語のように地上へと続いているようだった。 「さあ、 帰りなさい。 猫よ」 |
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2009-06-15 Mon 16:08
一日が終わると狂っていることに気づく。
狂っているなら狂っているでも構わなかったが、正しい時もあった方が何かの支えになるだろうと考えてお婆さんは、また新しいものを探しに行く。時計屋の時計は例外なくみな狂っていることを学んだ後では、どこかの街角で拾ってくることが多くなったが、一日が終わるとああやはり狂っているのだ。 今日も一日が終わり、いつものように狂っている。狂っているものばかりがお婆さんの部屋を占領し始めているのだった。 「みんなで狂えば怖くはないか」 新しい古時計の一つに向きながら、お婆さんが言うと時計はカチカチと負け誇ったような音を立てた。 「いつまでもそうやって遊んでいなさい」 そんなことを言ってから、猫は不機嫌になってしまった。それから消えてしまった。 お婆さんの時計がおかしくなってしまったのは、それからだった。 猫の横顔が好きだった。 夜にお婆さんは思い出していた。 他に好きなところは思い出せなかった。 雨が大人しくなった街角で、お婆さんは時計を探していた。 見知らぬ猫がお婆さんに向かって走ってきた。けれども、お婆さんを通り越して見知らぬ友達の元へ駆けていくのだった。三毛猫と黒猫の追いかけっこが始まった。 お婆さんは、古時計を一つ拾い持ち帰った。 キミの消えた 季節の中で 春は訪れない 私は凍てつく 季節を描けない もう何も キミの消えた 時間の中で 時は刻まれない 私は狂った 時を描けない もう何も キミの消えた 街の中で 風景は流れない 私は知らない 風景を描けない もう何も もう何も 狂った時が支配する世界の中で もう何も 私には 描くことはなくなった 何もないところから さあ 一日が始まると狂っていることに気がついた。 狂っているので始まっているか始まっていないのか本当のところは定かではなかったが、狂っているということだけはまず確かなようだった。狂っているものに囲まれながら、自分を励まし勇気づけ、未来というものがあるのなら頭の中に描いてみようと空想のペンを振ってみたが、駆けて行くのは真っ直ぐに西日を追う猫の後姿だった。じっと見つめようとするが、猫はあまりに速くあまりに小さくまたオレンジの光が障壁となって視界を塞ぐのだった。 猫のネットワークを頼って、猫のことを頼んでみようかとも考えたが、現実の猫たちはお婆さんの猫だけに構ってもいられないのだと考え直した末、お婆さんはしなかった。しないことに決めた後も、お婆さんは少し後悔してみたりした。 「御免ください」 人の力を借りることにした。突然、決断することが閃いたのだ。 「猫探しを頼みたいのですが」 人のお巡りさんは、驚いたようにお婆さんを見返した。 お婆さんは、事細かに猫の特徴について説明し、似顔絵まで書いて見せたのだった。 「それなら、あなたのすぐそばにいますよ」 人のお巡りさんは、あっさりしょうゆラーメンを食べたような顔で微笑んだ。 お婆さんの肩の上で、猫が小さく鳴いた。 その横顔は、どこにでもいるようなどこにもいないようなお婆さんの猫だった。 猫と額を合わせて、お婆さんは久しぶりの再会を喜んだ。 わけがわからないといった顔をしながら、猫はお婆さんの顔をなめた。 春風が入り込んで、猫の似顔絵を揺らした。 |
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2009-05-12 Tue 20:48
無償の愛を、猫は恐れた。
----好きだよ。好きだよ。 ----おいでよ。何も怖くないよ。 スキスキオーラを出しながら近寄ってくる。 ネコスキたちに追われていると猫はヒトキライになる。 ヒトキライは隠れる場所を探さなければならなかった。 隠れる場所を探すことは生きるための道であったし、その道を絶えず磨き続けてずっと生きてきたのだ。隠れることは生きることそのものだった。だからこそ猫は人には見つけられない小さな隙間を見つけ出すことができた。どんなに追い込まれた時であっても、ほんの一瞬で見つけ出すことができるのだった。けれども、ネコスキたちに追われている時は、普通の場所ではすぐに見つかってしまう。例えば、絵本の間、トランプの箱の中、長靴の底、プールサイドの端っこ、オルゴールの中、四六時中の休憩所、どら焼きの中心、木陰、そのような場所に隠れるのは無意味だった。 まちゃまちゃの間に猫は隠れることにした。ほんの僅かな隙間、けれども才能のある猫にとっては充分な隙間を見つけて身を隠した。その時、猫はまちゃ猫まちゃになった。後を追ってきたネコスキは、まちゃまちゃの前で足を止めてまちゃまちゃを見、まちゃまちゃの足下や頭の上を見、まちゃまちゃの周辺を見回したけれど、猫はどこにも見つからないのだった。ヒトキライの隠れ方があまりに見事だったために、まちゃ猫まちゃになっているところが、ただのまちゃまちゃにしか見えたかったのである。 猫は安住の隙間を見つけた時、この上ない幸福感に浸る。世界で一つ、自分だけの秘密の隠れ家。もう、ヒトが来ても怖くはない。もう、誰にも見つからない……。 まちゃとまちゃの間で猫は歩いた。まちゃとまちゃに抱えられながら、時々猫は飛ぶように歩くのだった。まちゃもまちゃもほど良いバランスを取りながら猫を浮かすので、猫はそのまちゃまちゃの感覚を信じて身を預けることができるのだった。地面スレスレの低空飛行、けれどもその何秒間かの一体感を猫は愛した。そこは最も小さな宇宙、そして最もまちゃ猫まちゃな時間だった。 ネコスキに追われている猫を見た。一昔前の、まちゃ猫まちゃになる前の自分を見るように見ていた。猫は、ヒトキライに変化しながら非凡な隠れ場所を探しているけれど、まだそれは見つけられないようだった。まちゃ猫まちゃは、逃げる猫の瞳に桜色の不安を見て取ったのだった。それは四月のチョークが分断される時のように憂いを帯びた色。猫がこちらに近づいてくる。 まちゃ猫まちゃは、逃げる猫を見ていた。呼び声をあげようとしてあげなかった。まちゃまちゃの間に引き込めば、猫を救えることは確かだった。けれども、その間は決して充分ではなかったのである。まちゃ猫まちゃはそう思い、思いとどまったのだった。あるいは、そう思い込むように自分に仕向けたのだった。ここは、自分ひとりの場所。まちゃまちゃを見上げるとまちゃまちゃは空を見上げていた。空では鳥が、束になって雲を描いている最中だった。 まちゃとまちゃの間で、眠った。何度も何度も同じ夢を見た。まちゃとまちゃがいなくなってしまう夢だった。目が覚めると自分がまちゃとまちゃの間にいることを確かめて、猫はまた安心して眠るのだった。 ある時、目が覚めるとまちゃとまちゃがいなくなっていた。きっとこれは夢だ……。猫はもう一度、目を覚まし直そうとして眠った。夢の中で、猫はネコスキたちに囲まれて宴を開いていた。宴は、ネコスキたちが疲れて桜の木の下に帰って行くまで続いた。そうして目を覚ますと猫は、まちゃとまちゃの間にいるのだった。それから、猫はまた眠った。 巨人がチューブを振り回す音が聞こえた。それは遠くの遺跡から聞こえてくる異様な音楽のようだった。空を切り裂き、星を切り裂き、時を切り裂いた。コーヒー豆を切り裂き、クマの小言を切り裂き、屋根の上の絵本を切り裂いた。音は、徐々に気がかりとなって、まちゃ猫まちゃの方へと忍び寄ってくるようだった。永遠に似た一瞬の静寂が、新しい音階を溜め込んでいる間、気がかりはいよいよ増幅して猫の首筋を撫でつけるのだった。何かがやってくる。 何かが……。やってくる……。 巨人が、再び狂ったようにチューブを振り回し始めた。 まちゃ猫まちゃは、まちゃまちゃに身を寄せ、よりいっそうまちゃ猫まちゃであり続けた。 おかえりと声が 聴こえるような 秘密の隠れ家を 僕は見つけたよ こんなところに あったんだね ほっとするような あたたかな場所 おかえりと声が 迎えるような 小さな隠れ家を 僕は見つけたよ こんなところに あったんだね 追ってきても もう大丈夫だね おかえりと愛が 包むような 秘密の隠れ家を 僕は見つけたよ こんなところに あったんだね みんなみんな 逃げておいでよ 守ってあげるよ おかえりと愛が 微笑むような 秘密の居場所を 僕は見つけたよ ほっとする間に 広まる安らぎ 小さな隠れ家は いつか僕たちを 抱え切れなくなって もう おかえり 誰かの 声が聴こえて僕は ひとりになる おかえりと声が 聴こえるような 最初の隠れ家を 僕は見つけたよ こんなところに あったんだね たしかにきっと あったんだね 「そんなところにいたら邪魔ですよ」 まちゃ猫まちゃの間の猫に対して、お婆さんが言った。 猫は、身をサイコロのように縮めてお婆さんの声が通過するのを待っていた。 けれども、待っているのはお婆さんの方も同じだった。 「そんなところにいたら邪魔ですよ」 そんなはずはなかった。そんなはずはなかった。 「そんなところにいたら邪魔ですよ」 お婆さんは、呪文のように繰り返した。 繰り返される度に、まちゃまちゃは小さくなってゆくのだった。猫が瞬く間に、隠れる間が失われてゆく。どれほど身を低くしてしがみつこうとしても、猫の手も背も尾も否応なく明るみに出て、もはやまちゃ猫まちゃとしてはいられなくなっているのだった。 ついに猫はひとり飛び出した。 その横顔は、新しい大地に生え始めた角のように頼りなく光っていた。 猫は、歩き始めてまちゃまちゃの方を振り返った。 けれども、そこにはお婆さんが立っていて見えなかった。 スキップをするように、ぎこちなく気ままに猫は歩き始めた。低空飛行のような歩き方だった。 小さな石ころが、気まぐれに猫の足下を駆けていった。 |
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2009-04-22 Wed 17:54
女の子が空を見上げているのは、空が晴れているからではなかった。
もしも晴れていなければこんなことにもならなかったのだ。 けれども、春が瞬時に凍りついたようにじっと空を見上げていたのだった。 犬の鳴き声がしたのである。 その時、つい手を離してしまったのだ。 彼女はすぐに手を伸ばした。けれども、手から離れたそれはすぐに女の子の背丈の何倍もの高さに離れてしまった。あまりに速く、あまりに自由に空を求めてそれは離れていくかにみえたそれは、けれども突然大地に近い領域にとどまったのである。 犬は天を仰ぎながら吠え立てた。女の子は声の出し方を忘れ、犬の鳴き声も聞こえないほどだった。 それはなぜ、そこにとどまったのだろう。自分を置いてどこまでも逃げて行くはずだったそれは、なぜこんなに近くそれでいて手の届かないところにとどまってしまったのだろう。強い風が、彼女の前髪を、彼女が見上げる木の枝々と花びらを揺らした。 木は、それから何年もの間そこにいた。空を見上げ、大地を見下ろし動かない証人のようにそこに立っていた。いくつもの季節が、木の中を通り過ぎ、その周辺を人々は歩いて行った。とりわけ春ともなると、人々は喜んで木を囲い集まったものだった。それから風が落葉を散らすように、人々は消えてしまうのだった。 女の子が空を見上げているのは、空が晴れているからではなかった。 彼女は今にも降り出しそうな様子で、見上げていたのだ。 サクラの木にとまった風船をただ見つめていた。 それから、女の子はお婆さんになったのだった。 サクラが咲く頃 私の扉は 閉ざされた 真っ白い靴も 春色に輝く文房具も すべて色を失った なぜなのなぜなの 見上げて問いかける あなたは何も答えなかった サクラが咲く頃 私の未来は 変わってしまった お気に入りの怪獣も 小さな友達もみんな 遠くへ行ってしまった なぜだいなぜだい あなたも困惑している 私は問いかけるのをやめた サクラが舞うより 早く私たちは 散り散りになった 遠く離れた場所で 私は生まれ変わった 閉ざされた空間には 未知の敵と恐怖が潜む 今までにない孤独の中で 自尊心だけを守る 私は私の物語をつくって ひとりつくってつくって 時々思い出す 私たちはなぜ 離れなければ ならなかっただろう それから私はずっと 遠くをみているようになった サクラが咲く頃に あなたは私を 離れていった サクラが舞う頃に 私はひとりで 風を聴いていた サクラが帰って来る度に 私はあの季節を思い出す おかえりおかえり サクラを見上げ ふっと笑い出す さよならさよなら 理由なんてなかったよね さよならまたね サクラが咲く頃 いちばんあったかい 「そっちへ行くと危ないよ」 けれども、男の子は忠告を聞かずにサクラの木の方へ突進して行った。 彼は、空しか見ていなかったからだった。 ああ、だから言ったでしょうに……。 男の子の操るタコは、お婆さんの予言した通り見事サクラの木の枝に引っかかってしまった。タコが空を見失った瞬間、男の子は時間の糸を大急ぎで元に戻そうと引っ張ったけれど、急いだからといってどうなるものでもないのだった。 猫とお婆さんは、広げたレジャーシートの上で仲睦まじく飲んだくれているのであった。 ああなっては、もうだめだねえ……。 猫は、ひっくり返って空を見上げた。サクラの木に途中降下した飛行機が見えた。 けれども、男の子は決してあきらめなかったのだ。サクラにつながる糸を引き、緩め、ぐるぐるとし、こそこそと語りかけ、時に強硬に時に柔らかく救出活動を続けているのだった。手元に糸があるばかりに、男の子はその先にある希望を見失うことも手放すこともできないのだった。 お婆さんは、やや憐れみに似た表情を浮かべ少年の仕草を見つめていた。その顔色はサクラ色だった。 日が暮れる……。 けれども、猫がくるりと回り立ち上がった。 その横顔は、長い時間を蓄えた風船のように膨らんでみえた。 猫は、ゆっくりとその大きな木に歩み寄った。 木の真下までくると、一瞬振り返り、その瞳で少年に秘密の暗号を送った。 少年は、タコの運命を猫に託して、地面に寝転がった。 風が、木々を揺らす。猫の頬もすっかりサクラ色に染まっていた。 |
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2009-04-08 Wed 20:32
「ばばあー、早くしろよー」
振り返ると、人間の皮を被った人間が立っていた。 そして、それは熊の皮を被った熊よりも遥かに恐ろしい。 下手に言葉をしゃべるだけに、それはなおさら恐ろしい。 お婆さんは、小銭を数えている。 一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚…… 「ばばあー、もたもたすんじゃねえよ!」 再び、後ろで声がしたが、今度は振り返らなかった。 振り返らなくても声は、届く。届いてなど欲しくないのに、届く。 それは人間の声だ。人間は誰であれ人間の言葉を聞くようにできている。 人間は、人間の言葉から逃げることはできないのだった。 けれども、猫は違う。猫は、聞きたい人の声だけを聞きたい時にだけ聞くだけだ。 お婆さんは、人間の口を塞いでしまいたいのをがまんして、小銭を数え始めた。 一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚…… 早くしろと言われれば、余計に遅くなる。それは、そういうことになっているのだ。 「740円のお返しになります」 お婆さんの手の中から、10円玉がするりと滑り落ちて転がっていった。 猫が、人の間を掻き分けて追いかけていく。 「待てーっ!」 猫は、叫んだ。 けれども、10円玉には猫の言葉はわからなかった。 雑誌コーナーの下に潜り込んで、それっきり見えなくなった。 お婆さん、ごめんなさい。ダメでした。 いいんだよ。ありがとう。 死んでも あんな奴に 負けない たった一人のせいで 時々私は 進めなくなるけど 猫の瞳の奥に よみがえってくる 記憶 いつだったか 名前も 知らない人が 優しく道を 教えてくれた そんなことで だから私は 死んだって 負けない あんなことで たった一人のせいで 時々世界は 暗くなってしまうけど 猫の瞳の奥に よみがえってくる 記憶 いつだったか 名前も 知らない私に 旅人は道を 訊いてくれた そんなことで だから私は 店の前には、つながれた犬が、主を待ちわびて鳴いている。 あるいは、怒っているのかもしれない。 ゴミ箱は、それぞれ燃える種類や燃えない種類などに分類されていて、その下では帽子を被った男がしゃがみ込んで蟻と話し込んでいた。うんうん、そうなの、そうなのかい、大変だねえ。 けれども、お婆さんには、もし蟻がしゃべっているのだとしても、蟻の言葉は聞こえなかった。 「天国町はどっちですか?」 しばらく歩いていると、男の子が道を訊いてきた。 「ずーっと真っ直ぐいきなさい」 「ん? えっと、どっち?」 「思った通りをいきなさい」 男の子は、少し戸惑った様子で、来た道を振り返りこれから進むかもしれない道を、見つめた。 その横顔は、天井裏から水色の世界を見下ろしている猫のようだった。 「それから目立たない良いことを、たくさんしなさい」 何のことだろうか……。 猫は、お婆さんの肩の上で、頭をひねった。 時々、お婆さんの言うことがわからなくて、猫は頭をひねるのだった。 無事に、たどり着くといいな……。 真っ直ぐに歩いて行く少年を、しばしの間、見つめる。 |
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